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慶長5年9月13日〜14日(1600年)
豊後国速見郡石垣原(現・大分県別府市)
勢力
黒田軍(東軍方)
大友軍(西軍方)
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石垣原の戦い(いしがきばるのたたかい)は、慶長5年(1600年)9月13日から14日にかけて、豊後国速見郡石垣原(現・大分県別府市)において行われた合戦である。関ヶ原本戦(同年9月15日)の前々日から前日にかけて九州で戦われたことから、「九州の関ヶ原」あるいは「西の関ヶ原」とも呼ばれる。
大友氏は鎌倉時代初期に相模国大友郷に興った武家で、鎌倉期に豊後国の地頭職・守護に任じられて以来、南北朝・室町期を通じて豊後・豊前・筑後に勢力を広げた有力守護大名であった。戦国期には第21代当主・大友宗麟(義鎮)が海外貿易による経済力と巧みな外交・軍事によって最盛期には北九州6ヵ国に及ぶ勢力圏を築き上げた。義統はその宗麟の嫡男として永禄元年(1558年)に生まれ、天正4年(1576年)頃に家督を継いで第22代当主となった人物である。
大友義統(おおとも よしむね、法名・吉統)は、豊臣秀吉による九州平定後も豊後の大名として存続していたが、文禄の役(1592〜1593年)における平壌撤退の一件を理由に文禄2年(1593年)5月1日に改易処分を受けた。文禄2年正月、朝鮮軍が平壌の小西行長軍を攻撃した際、行長は黒田長政・大友義統・小早川秀包らに援軍を要請したが、義統はこの要請に応じず、行長隊を見捨てる形で漢城へ撤退してしまった。同様の退却は他の大名も行っていたにもかかわらず、秀吉は義統のみを「臆病者」と断じて所領を没収し、直轄地に組み入れた。その後、義統の身柄は毛利輝元に預けられ、のちに佐竹義重のもとへ移されている。
慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が死去すると、政権内部では五大老の徳川家康と、これに反発する五奉行・石田三成らの対立が先鋭化した。石田三成をはじめとする西軍勢力は、旧領回復を望む大友義統に接近し、義統は西軍に与して旧領・豊後奪還を図ることとなった。義統は赦免されて自由の身となっており、西軍の支援を受けて兵を挙げた。
一方、豊前中津の黒田如水(孝高、通称・黒田官兵衛)は、関ヶ原本戦に向かった嫡男・黒田長政とは別に豊後・豊前に留まり、東軍方として九州における西軍勢力の掃討にあたっていた。長政が黒田家の主力軍を率いて会津征伐・関ヶ原本戦に従軍していたため、隠居の身であった如水は中津城の留守居として手元にあった金銀を放出し、およそ3,600人にのぼる浪人を新たに召し抱えた。これに留守居の兵や領内の百姓・商人まで動員して掻き集め、総勢約9,000人の軍勢を編成したうえで、9月9日に豊後国への侵攻を開始した。
慶長5年(1600年)9月8日夜、瀬戸内海を渡った大友義統は豊後国内の富来城と安岐城の間に上陸し、夜明け前に木付(杵築)沖を南下して浜脇に上陸した。翌9日朝、義統は石垣原の北に位置する立石(たていし)に本陣を布き、かつての大友氏旧臣たちに参集を呼びかけた。旧臣の吉弘統幸(よしひろ むねゆき)や宗像鎮統(むなかた しげむね)らが義統のもとに集結した。
吉弘統幸は、義統に先立って柳川の立花家に仕えていたが、大友家の当主の座を継いでいた義統の子・義乗が徳川方に仕えていたこともあり、旧主家への恩義から暇乞いをして義統のもとへ向かう途中で義統本人と再会した。統幸は義乗の立場を踏まえ、義統に東軍への加担を進言したが、義統はこれを聞き入れず西軍方として挙兵したため、統幸もやむなくこれに従うことになったと伝わる。
9月10日夜には、立石本陣から杵築城攻撃に向かった大友勢(吉弘統幸を大将とし、岐部玄達・吉弘七左衛門・鉄砲頭の柴田統生ら雑兵およそ100人)が城下に夜襲をかけたが、杵築城主・松井康之が伏兵を配して迎撃し、柴田統生が討ち死にするなど大友方は敗退した。
同じ9日、大友勢が立石に布陣したとの報を受けた黒田如水は、中津城を出陣して宇佐の高森城・高田城を経由し、10日には赤根峠を越えて国東半島方面へ進出、大友方の富来城を包囲した。黒田軍本隊は9月12日に安岐城を攻め、13日には杵築城救援に向けて出撃してきた大友方の熊谷直盛隊を撃破した。
9月13日、杵築城救援に出た黒田軍の先遣隊(一番備)は実相寺山と角殿山の間道を抜けて石垣原に布陣していた大友勢と昼頃から交戦状態に入り、後には杵築城から出撃した松井勢も合流した。緒戦では大友方の吉弘統幸が偽って敗走する構えを見せ、立石の本陣近くまで黒田軍を誘い込んだ。追撃してきた黒田軍一番備に対し、伏せていた宗像鎮統の部隊と統幸の反転攻撃が加えられ、黒田方の武将・久野次左衛門、曾我部五右衛門らが討ち死にする激戦となった。統幸は釣り野伏せの戦術を巧みに用い、自ら朱柄の槍を振るって黒田方の武者三十余人を討ち取るなど、劣勢の大友軍にあって獅子奮迅の働きを見せたと伝えられる。
しかし戦況は徐々に黒田方優勢に傾き、大友方の主力であった吉弘統幸・宗像鎮統ら有力武将が次々と討ち取られていった。統幸は石垣原合戦前夜、自らの死を予期してか「明日は誰が草の屍や照らすらん 石垣原の今日の月影」という辞世の句を残しており、この歌は後世、忠義を貫いて散った武将の心情を伝えるものとして語り継がれている。
9月14日、実相寺に到着した黒田如水は首実検と軍議を行った。主だった重臣を失った大友義統は敗戦を悟り、自刃しようとしたが、家臣の田原親賢(たわら ちかかた)に諫められて思いとどまった。義統は剃髪して仏門に入る形(法体)をとり、田原親賢を黒田軍陣中の母里友信(もり とものぶ)のもとへ使者として派遣し、黒田如水に対して正式に降伏した。これにより石垣原の戦いは終結した。
降伏後の義統は中津を経て大坂の黒田長政のもとへ移送され、黒田孝高らの助命嘆願もあって死罪は免れたものの、常陸国宍戸(現・茨城県笠間市)に幽閉の身となり、慶長10年(1605年)に同地で没した。これにより豊後の名門・大友氏が大名として再興する道は完全に閉ざされた。
大友義統を降した黒田如水は、石垣原合戦の翌日である9月16日から進撃を再開し、17日には包囲中の安岐城への攻勢を強め19日に開城させた。続いて23日からは富来城への攻撃を本格化させ、10月2日についに同城を開城させた。この間、如水の軍勢は各地で投降した敵兵を吸収しながら膨張を続け、当初9,000ほどであった兵力は最終的に1万3,000人規模にまで拡大したと伝えられる。石垣原の勝利を起点としたこの一連の作戦により、黒田如水は豊後一国をほぼ平定するに至った。
石垣原の戦いは関ヶ原合戦と全国規模で連動した局地戦の代表例であり、黒田官兵衛(如水)という稀代の軍師の実戦指揮能力を示す合戦として知られる。黒田家に伝わる名刀の中には、この九州平定戦を含む如水・長政父子の戦歴を伝来の由緒とするものも少なくなく、黒田家伝来の刀剣コレクションは現在も福岡市博物館などに収蔵され、戦国末期の九州武家社会における刀剣文化を今に伝えている。
石垣原古戦場は現在の大分県別府市内に比定されており、大友義統本陣跡、吉弘統幸の陣所跡、実相寺山などの史跡が残る。別府市教育委員会による解説板や慰霊碑も設置され、関ヶ原と同時期に九州で繰り広げられた激戦の記憶を伝えている。