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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
276件のイベント
慶長元年(1596年)頃
慶長元年(1596年)頃、豊臣秀吉は本阿弥光徳を「刀剣極め所」に任命し、折紙による刀剣鑑定・評価制度を公認した。本阿弥家発行の折紙は刀工銘・時代・評価額を記す公的な鑑定書として機能し、後の享保名物帳編纂や現代の刀剣鑑定制度に連なる基盤を築いた。
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慶長9年(1604年)頃(伝承。『小倉碑文』『二天記』など武蔵没後の史料に基づく)
慶長9年(1604年)、宮本武蔵が京都の名門・吉岡一門と一乗寺下り松で決闘したと伝わる逸話。伝承では武蔵が数百名の門弟を相手に単身勝ち抜いたとされるが、この記述は武蔵没後の顕彰的史料に依拠しており、史実性には学術的な疑義がある。
慶長8年(1603年)2月12日
慶長8年(1603年)2月12日、徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた。関ヶ原の戦いから2年余りを経て実現したこの政権確立は、以後260余年にわたる江戸時代の礎となった。幕藩体制の整備、武家諸法度の制定、参勤交代制度の法制化により、武士身分と刀装文化は高度に制度化され、日本刀は武器から武士の権威と美の象徴へと昇華していった。
慶長5年9月7〜15日(1600年10月13〜21日)
慶長5年9月7〜15日(1600年)、近江国大津城(現・滋賀県大津市)において、京極高次が立花宗茂ら西軍の大軍に対して約9日間籠城した戦い。高次の果敢な抵抗は関ヶ原本戦当日まで立花宗茂ら西軍精鋭1万5千を大津に釘付けにし続け、結果として関ヶ原での東軍勝利に貢献した。「蛍大名」と揶揄された高次が、歴史的な戦略的貢献者となった籠城戦。
慶長5年9月17日〜18日(1600年)
慶長5年9月17〜18日(1600年)、関ヶ原本戦のわずか2日後、近江国佐和山城(現・滋賀県彦根市)において、石田三成の父・正継と兄・正澄が東軍1万5000の大軍を相手に籠城した戦い。守備兵力わずか2800で抗戦するも落城し、正継・正澄兄弟をはじめ石田一族の多くが自刃した。三成の権勢の象徴であった居城が消滅した、関ヶ原掃討戦の象徴的な一幕。
慶長5年9月13日〜14日(1600年)
慶長5年(1600年)9月13日〜14日、豊後国速見郡石垣原(現・大分県別府市)において、東軍・徳川方に与した黒田如水(孝高、黒田官兵衛)の軍勢と、西軍に呼応して旧領回復を図った大友義統(吉統)の軍勢が激突した合戦。関ヶ原の本戦とほぼ同時期に九州で行われたことから「九州の関ヶ原」とも称される。黒田方の勝利に終わり、大友義統は降伏して大友氏の大名としての再興は潰えた。
慶長5年9月(1600年)
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いと同時進行で奥羽の地において上杉景勝と最上義光・伊達政宗連合軍が激突した合戦。直江兼続率いる上杉軍が長谷堂城を攻め、最上方の頑強な抵抗と関ヶ原敗報を受けて撤退した。
慶長5年8月22〜23日(1600年9月27〜28日)
慶長5年8月22〜23日(1600年)、美濃国岐阜城(現・岐阜県岐阜市)において、東軍・福島正則・池田輝政らが西軍・織田秀信(三法師)の守る岐阜城を二日で攻略した合戦。関ヶ原の戦いの前哨戦として重要な位置を占め、天下分け目の戦いに先立つ東軍の快勝が西軍の戦略的配置を大きく乱した。
慶長5年7月24日〜25日(1600年)
慶長5年7月24〜25日(1600年)、陸奥国白石城(現・宮城県白石市)において、伊達政宗が徳川家康の会津征討に呼応し、上杉方が守る白石城を攻略した戦い。名目上の城代・甘粕景継は会津に在陣中で不在、実際の防衛は景継の甥・登坂勝乃が担い、わずか一日あまりで降伏した。慶長出羽合戦の緒戦として位置づけられる。
慶長5年7月19日〜9月18日(1600年8月25日〜10月14日)
慶長5年(1600年)7〜9月、丹後国田辺城(現・京都府舞鶴市)において、文化人・武将として名高い細川幽斎(藤孝)が西軍の大軍を相手に約2か月間籠城した戦い。後陽成天皇の勅命によって和平が成立し、幽斎は「古今伝授(こきんでんじゅ)」の唯一の継承者として特別に命を救われた。和歌と刀剣を愛した文武両道の名将の最後の籠城戦として名高い。
慶長5年7月19日〜8月1日(1600年8月30日〜9月8日)
慶長5年(1600年)7月〜8月、関ヶ原の戦いの前哨戦として勃発した籠城戦。徳川家康の老臣・鳥居元忠が伏見城に立て籠もり、石田三成率いる西軍約4万に対して約1800の寡兵で十余日間防戦し、城と運命を共にした。元忠の忠義と玉砕が東軍諸将の士気を高め、関ヶ原の戦いへの序章となった。戦後、血で染まった廊下板は「血天井」として諸寺に移され、今も伏見城の壮絶な最期を伝える。
慶長17年(1612年)4月13日
慶長17年(1612年)4月13日、豊前国・巌流島において宮本武蔵と佐々木小次郎が一騎討ちを行い、武蔵が勝利した。日本の剣術史・武士道文化を象徴する伝説の決闘。
慶長14年3月4日〜4月4日(1609年、山川出港から首里城開城まで)
慶長14年(1609年)、薩摩藩主・島津家久の命を受けた樺山久高率いる約3,000の軍勢が琉球王国へ侵攻した。山川港を出港し奄美大島・徳之島・沖永良部島を経て運天港に上陸、首里城を開城させ国王・尚寧を降伏させた。以後、琉球王国は日本と中国の双方に従属する「日支両属」体制へと移行し、幕末までその立場を保つことになる。
慶応4年8月21日(1868年10月6日)
慶応4年8月21日(1868年10月6日)、会津・二本松の藩境にある母成峠で、大鳥圭介率いる旧幕府・会津方守備隊約800と、板垣退助・伊地知正治率いる新政府軍約7000が激突。半日で守備隊は敗走し、新政府軍は一気に会津若松城下へと迫った。会津戦争の帰趨を決定づけた戦いとされる。
慶応4年7月29日(1868年9月15日)
慶応4年(1868年)7月、戊辰戦争において奥羽越列藩同盟に加わった二本松藩を新政府軍が攻めた戦い。兵力不足を補うため12歳から17歳前後の少年たちが「二本松少年隊」として実戦に投入され、多くが戦死したことで知られる。
慶応4年3月6日(1868年3月29日)
慶応4年(1868年)3月6日、甲斐国勝沼(現・山梨県甲州市)において、新政府軍(土佐藩兵ら)と旧幕府軍(近藤勇・土方歳三率いる新選組改め甲陽鎮撫隊)が激突した戊辰戦争の戦闘。兵力差と銃火器の圧倒的優位により甲陽鎮撫隊は壊滅的敗北を喫し、新選組は事実上の戦力として消滅した。
慶応4年1月3日〜6日(1868年1月27日〜30日)
慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の口火を切った薩摩・長州連合軍と旧幕府軍の激突。近代兵器を擁する新政府軍が圧勝し、徳川慶喜は江戸へ敗走。武士の時代の終わりを告げる戦いとなり、刀剣文化においても「刀から銃へ」の転換点として記憶される。
慶応4年1月〜明治2年5月(1868年1月〜1869年6月)
慶応4年(1868年)から明治2年(1869年)にかけて、倒幕・維新派の薩長同盟を中核とする新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟が激突した内戦。鳥羽・伏見の戦いに始まり、会津戦争・箱館戦争をもって終結した。廃刀令前夜、刀剣が近代戦争の中で最後の輝きを放った時代である。
慶応3年11月18日(1867年12月13日)
慶応3年(1867年)11月、新選組から分離し倒幕方面の活動を展開していた伊東甲子太郎ら御陵衛士が、京都・油小路で新選組に謀殺された事件。御陵衛士は事実上壊滅し、新選組にとって最後の大規模な内部粛清となった。
慶応2年6月7日〜8月下旬(1866年7月)
慶応2年(1866年)、幕府が長州藩征討のため諸藩に出兵を命じた軍事作戦。しかし薩長同盟(坂本龍馬仲介)後の長州藩は高杉晋作率いる奇兵隊で幕府軍を各戦線で撃退。幕府の実力の限界を天下に示し、翌年の大政奉還・明治維新への決定的な転換点となった。
慶応2年(1866年)1月21日
慶応2年(1866年)1月21日、坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介で薩摩藩と長州藩が結んだ軍事密約。倒幕・明治維新の実現を可能にした日本史上最も影響力の大きな政治同盟の一つ。
慶安4年(1651年)7月
慶安4年(1651年)、軍学者・由井正雪と槍術家・丸橋忠弥を首謀者とする牢人たちが、幕府転覆を図った未遂のクーデター計画。三代将軍徳川家光の死と幼将軍家綱の相続を好機とみて挙兵を企てたが、密告により事前に発覚。正雪は駿府で自刃し、忠弥は磔刑に処された。大量に生まれた牢人の困窮という泰平期の矛盾を露呈し、幕府の牢人政策を転換させた事件である。
応永6年(1399年)10月〜12月
応永6年(1399年)、室町3代将軍・足利義満と西国最大の守護大名・大内義弘が和泉国堺で激突した反乱。義弘が大太刀を手に討ち死にして終結し、将軍権力の確立と室町刀剣文化の礎となった。
応永26年6月(1419年)
応永26年(1419年)6月、李氏朝鮮が227隻・1万7285人の大軍で対馬を侵攻した事件。対馬守護・宗貞盛率いるわずか600人の武士が地の利を生かした奇襲で善戦し、朝鮮軍を撃退した。元寇以来140年ぶりの対外軍事侵攻であり、室町幕府・日朝関係に大きな転換をもたらした。