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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
242件のイベント
寿永2年5月11日(1183年6月2日)
寿永2年(1183年)5月、木曾義仲(源義仲)が越中・加賀の国境に位置する倶利伽羅峠において、平維盛率いる平家大軍を大破した戦い。牛の角に松明を結びつける「火牛の計」の逸話で知られ、義仲の京都入りへの道を開いた源平合戦の転換点。
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寛永11年11月7日(1634年12月26日)
寛永11年(1634年)11月7日、伊賀国上野(現・三重県伊賀市)の鍵屋の辻において、剣客・荒木又右衛門(あらきまたえもん)が義弟・渡辺数馬(わたなべかずま)の仇敵・河合又五郎(かわいまたごろう)一行に対して助太刀し、数馬が又五郎を討ち取った事件。「日本三大仇討ち」のひとつに数えられる江戸時代最大の果し合いであり、荒木又右衛門の卓越した剣技と胆力が伝説となった。
宝治元年(1247年)6月5日
宝治元年(1247年)6月、北条時頼が三浦泰村一族を鎌倉で滅ぼした幕府内部の権力闘争。武士の集団自刃という名誉死の形式を鮮烈に示し、北条氏の権力独占を決定的に固めた政変。
安政5年〜6年(1858〜1859年)
安政5〜6年(1858〜1859年)、大老・井伊直弼が将軍継嗣問題・日米修好通商条約をめぐって反対派を大弾圧した政治事件。吉田松陰・橋本左内ら100名超が処罰され、幕末最大の政治的粛清として知られる。この弾圧が翌年の桜田門外の変を直接招いた。
天武天皇元年6〜7月(672年)
天武天皇元年(672年)6〜7月、大海人皇子(後の天武天皇)と大友皇子(弘文天皇)が皇位を争った古代日本最大の内乱。大海人皇子が美濃・尾張の豪族を糾合して大友勢を圧倒し、勝利後に天武天皇として即位。律令国家の確立と日本刀の源流となる和刀文化の基盤を形成した。
天正元年8月(1573年8月)
天正元年(1573年)、織田信長が浅井長政の居城・小谷城(近江国・現滋賀県)を総攻撃した合戦。小谷城は天下に名高い山城の要害であったが、信長の大軍と武将たちの連携攻撃の前に陥落。浅井長政は自刃し、浅井氏は滅亡した。この攻城戦は、信長の天下統一への道を大きく開くとともに、後の明智光秀による本能寺の変への遠因をはらんだ。
天正9年3月22日(1581年4月25日)
天正9年(1581年)3月22日、遠江国高天神城(現・静岡県掛川市)が徳川軍に落城。武田勝頼が籠城軍への救援を送れず、城将・岡部元信らは玉砕。武田の「天下無双の堅城」を守り切れなかった勝頼への武田家臣団の失望は決定的となり、翌年の武田氏滅亡への転機となった悲劇の攻城戦。
天正6年3月13日(1578年4月19日)
天正6年(1578年)、上洛を目指した遠征の出陣を目前に、越後の名将・上杉謙信は居城・春日山城で急死した。49歳。後継者を定めていなかったため養子の景勝・景虎による御館の乱が勃発し、越後の勢力は大きく後退した。
天正6年3月〜天正8年1月(1578〜1580年)
天正6〜8年(1578〜1580年)、播磨国三木城(現・兵庫県三木市)において、羽柴秀吉が別所長治の籠もる三木城を2年間にわたって兵糧攻めにした長期攻城戦。秀吉の「干殺し(ほしごろし)」戦術の代名詞となった合戦で、別所長治は城兵を助けるために自刃した。城兵を思う主君の覚悟と、刀による最期が後世に語り継がれる名場面。
天正6年3月〜天正7年3月(1578年〜1579年)
天正6年(1578年)、越後国の覇者・上杉謙信が急死したことを発端に、謙信の養嗣子・景勝(長尾景勝)と景虎(北条三郎)の間で勃発した上杉家の家督相続争い。越後を二分する内乱は約2年間続き、景勝の勝利で幕を閉じた。謙信の霊刀・山鳥毛や景勝が誇った刀剣コレクションが、戦乱の焦点ともなった。
天正6年10月21日(1578年11月)〜天正7年8月(1579年9月)
天正6年(1578年)10月、織田信長の重臣・荒木村重が突如謀反を起こし、摂津国伊丹城(現・兵庫県伊丹市)に籠城した。信長の再三の降伏勧告を拒否し続け、天正7年(1579年)8月に城を脱出して逐電。その後、妻子・家臣ら約600人が処刑された。謀反の真相は今も謎に包まれ、日本史上最も不可解な裏切りの一つとして語り継がれている。
天正5年9月23日(1577年11月3日)
天正5年(1577年)9月、上杉謙信が手取川(現・石川県)で織田信長の大軍を奇襲して壊滅させた伝説の戦い。謙信最晩年の大勝利として知られ、「越後の龍」の武威を天下に示した。しかし翌年の謙信急死により、その勝利は歴史の「if」となった。
天正5年10月(1577年)
天正5年(1577年)10月、大和国信貴山城(現・奈良県平群町)において、松永久秀が織田信長・信忠父子の軍勢に包囲され、天守爆破により自刃した攻城戦。茶釜「平蜘蛛」を城とともに爆破し壮絶な最期を遂げた久秀の姿は、「謀将の矜持」として後世に語り継がれる。
天正4年7月13日(1576年8月)・天正6年11月6日(1578年11月)
天正4年(1576年)と天正6年(1578年)の二度にわたり、摂津国木津川口(現・大阪市)沖で行われた水上合戦。毛利水軍の兵糧輸送を阻止しようとした信長の水軍が、第一次では壊滅的敗北を喫したが、第二次では九鬼嘉隆が建造した鉄甲船により毛利水軍を撃破。世界初の装甲艦による海戦として、日本の戦史に燦然と輝く。
天正4年(1576年)5月7日
天正4年(1576年)5月、石山合戦中に織田信長が大坂・天王寺で本願寺・三好康長の連合軍を迎撃した野戦。信長自身が鉄砲弾を受けて負傷しながら戦況を逆転させた激戦。
天正4年(1576年)1月着工〜天正7年(1579年)5月天主完成
天正4年(1576年)1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、琵琶湖畔の安土山に新たな居城の築城を開始した。天正7年(1579年)5月、望楼型5重6階地下1階の壮麗な天主が完成し信長自ら移り住んだ。総石垣普請・狩野永徳の障壁画・楽市楽座の城下町政策など、当時の城郭建築の常識を覆す数々の革新が凝縮されたこの城は、天正10年(1582年)本能寺の変後まもなく焼失したが、後世の日本の城郭建築に決定的な影響を残した。
天正19年8月〜9月(1591年9月〜10月)
天正19年(1591年)、豊臣秀吉の全国統一に反発した南部家重臣・九戸政実が陸奥国九戸城に籠城して起こした反乱。蒲生氏郷・前田利家・浅野長政らが率いる豊臣大軍が奥州に投入され、籠城戦の末に九戸城は開城。政実は処刑され、戦国最後の反乱の一つとして日本史に刻まれた。九戸城は後に「福岡城」と改称され、南部氏の支配が確定した。
天正19年2月28日(1591年)
茶聖・千利休が天下人・豊臣秀吉の命で切腹を強いられた事件。侘び茶と刀剣が交差する安土桃山文化の暗部を示す。
天正18年7月〜8月(1590年8月〜9月)
天正18年(1590年)7月から8月、小田原征伐直後に豊臣秀吉が実施した奥州(東北)諸大名の所領再編。小田原参陣に遅参した伊達政宗は大幅減封され、改易された大崎氏・葛西氏の旧領では大規模な一揆が勃発、秀吉の天下統一を締めくくる最終局面となった。
天正18年6月23日(1590年7月24日)
天正18年(1590年)、小田原征伐の一環として、上杉景勝・前田利家ら豊臣方別働隊約1万5千が北条氏照の居城・八王子城を攻略した戦い。城主不在の中、城代以下約3千が籠城したが一日で落城した。
天正18年5月〜同年7月(1590年6月〜8月)
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めに際して、石田三成が武蔵国・忍城(現・埼玉県行田市)を水攻めで攻略しようとした籠城戦。城代・成田泰季、後に総大将・成田長親が率い、正木利英や甲斐姫も支えた約500の守備隊が、三成軍数万の猛攻と石田堤による水攻めに耐えて最後まで落城しなかった。小田原城開城後も孤立して戦い続けた忍城は「浮き城」と呼ばれ、日本三大水攻めの一つとして名高い。
天正17年6月5日(1589年7月17日)
天正17年(1589年)6月、伊達政宗が会津の蘆名氏を摺上原(現・福島県耶麻郡猪苗代町)で撃破し、蘆名氏を滅亡させた合戦。政宗はこの勝利で会津・陸奥の大半を掌握し、「奥州の覇者」として東国一の大大名に上り詰めた。東北における戦国時代の実質的な終焉を告げた合戦。
天正16年7月8日(1588年8月29日)
刀狩令の目的は、農民・寺社から武器を没収して一揆を防ぎ、兵農分離=武士と農民の身分を制度的に確立することにあった。天正16年(1588年)7月に豊臣秀吉が発令した日本刀史上最大の社会変革であり、集めた刀は方広寺大仏の釘・鎹に転用するという名目で断行され、近世身分制社会の礎となった。
天正14年(1586年)7月14日〜27日
天正14年(1586年)7月、九州制覇を目前にした島津軍5万が、大友方の高橋紹運が守る筑前・岩屋城を包囲した。紹運はわずか763名の城兵とともに降伏勧告を拒み、半月にわたる死闘の末に7月27日、全員が討死する玉砕を遂げた。この壮絶な抵抗は島津軍を消耗させ、豊臣秀吉の九州征伐軍の到着まで時を稼ぎ、結果として島津の九州統一を阻んだ。