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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
276件のイベント
応安元年(1368年)頃
南北朝末期から室町時代初頭にかけて、念阿弥慈恩(俗名・相馬四郎義元、1350年生)が創始した念流は、日本兵法三大源流の一つにして最古の流儀とされる。慈恩は1368年頃に九州・筑紫の安楽寺での修行中に剣の奥義を感得し、諸国遍歴を通じて剣法を完成させた。その弟子たちが中条流・馬庭念流を開き、後の一刀流へと連なる日本剣術の根幹系譜を形成した。
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応仁元年〜文明9年(1467〜1477年)以降
応仁の乱(1467〜1477年)の戦火と、その後の室町幕府の権威崩壊によって、足利将軍家が代々収集・秘蔵してきた「東山御物(ひがしやまごもつ)」——中国・日本の名刀・絵画・茶道具・染め物など数千点に及ぶ至宝のコレクション——が京都の御所・倉庫から流出し、各地の大名・商人・寺社の手に散らばった。なかでも足利将軍家が「天下第一の名刀」として珍重した数多の刀剣が、この散逸によって全国各地に拡散し、戦国時代の刀剣観・名物観に決定的な影響を与えた。
弘治2年8月24日(1556年9月27日)
弘治2年(1556年)8月24日、尾張国稲生(現・名古屋市西区)で勃発した、織田信長と弟・信行(信勝)の骨肉の戦い。信長はわずか700余の兵で信行・柴田勝家の2000余の大軍を破り、信長の覇権を尾張で確立した最初の実戦である。
弘治2年4月20日(1556年5月28日)
弘治2年(1556年)4月20日、美濃国長良川河畔(現・岐阜市)において、斎藤道三(さいとうどうさん)が実子・斎藤義龍(よしたつ)率いる軍勢と戦い討死した合戦。「美濃の蝮(まむし)」と恐れられた道三が、息子に裏切られて最後を遂げたこの戦いは、岳父・道三の支援を頼みにしていた織田信長に大きな衝撃を与えた。
弘安4年(1281年)
弘安4年(1281年)、元・高麗連合軍約14万人・4400隻が博多湾に来襲した第二次蒙古襲来。北条時宗が整備した石塁と日本武士の夜襲・白兵戦、および7月30日の暴風雨(神風)により元軍は壊滅した。鎌倉後期の日本刀が実戦でその真価を問われた最大の事件であり、備前長船の長光・相模の正宗らが活躍した刀剣黄金期と重なる歴史的戦役。
建長年間(1249〜1256年)
建長年間(1249〜1256年)、鎌倉幕府執権・北条時頼の招聘により山城から粟田口国綱が鎌倉へ移住し、その子または養子とされる新藤五国光(しんとうごくにみつ)が相州(相模国、現・神奈川県)に根づいた技法から相州伝の基盤を形成した。国光は山城伝と備前伝の両技術を統合し、荒沸出来と呼ばれる強烈な刃文を特徴とする新様式を創出。この技法は弟子の正宗(まさむね)・行光(ゆきみつ)に受け継がれ、「天下五剣」に数えられる名刀群を生んだ相州伝として完成した。
建武3年/延元元年(1336年)3月2日
建武3年/延元元年(1336年)3月、京を追われて九州に落ち延びた足利尊氏が、後醍醐天皇方(宮方)の菊池武敏の大軍を筑前・多々良浜で破った合戦。わずか2千余の足利軍が2万を超える菊池軍を、大量の寝返りを誘って撃破し、これを機に九州の大半が足利方に転じた。尊氏はここで態勢を立て直し、再び東上して湊川の戦いで楠木正成を破る足がかりを得た。
建武3年・延元元年5月25日(1336年7月4日)
建武3年・延元元年(1336年)5月、足利尊氏の大軍に楠木正成・新田義貞が立ち向かった南北朝最初の決戦。絶対的不利を知りながら出陣した正成は奮戦の末に自害。「日本一の忠臣」として永く語り継がれる散り際は、武士道精神の象徴となった。
建武2年7月〜8月(1335年8月〜9月)
建武2年(1335年)7月、北条高時の遺児・北条時行が信濃国で挙兵し、鎌倉を一時占領した反乱。足利尊氏が後醍醐天皇の勅命を無視して独断で鎌倉へ向かい、時行を打ち破ったことが尊氏と建武政権の決裂のきっかけとなり、南北朝時代の幕開けを告げた歴史的事件。
建暦3年5月2日(1213年6月2日)
建暦3年(1213年)5月、鎌倉で起きた鎌倉幕府の内部抗争。侍所別当・和田義盛が北条義時に対して武力蜂起したが、敗れて滅亡した。この合戦により北条氏の幕府内支配権が一層強化され、執権政治の確立に決定的な役割を果たした。また和田義盛が蒐集していた名刀が戦後に各地に散った史実は、刀剣の流転という歴史の一側面を示す。
建保7年1月27日(1219年2月13日)
建保7年1月27日(1219年2月13日)、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が鶴岡八幡宮の石段で甥の公暁に暗殺された。右大臣拝賀の式典直後の凶行は、源頼朝以来の源氏直系将軍家を3代で断絶させ、北条氏による執権政治を決定的なものとした。太刀で首を打たれた実朝の最期は、日本史上最も衝撃的な政変の一つであり、その後の武家政権史に深刻な影を落とした。
建仁3年9月2日(1203年9月)比企能員殺害、同日小御所の合戦で比企一族滅亡
建仁3年(1203年)9月、鎌倉幕府2代将軍源頼家の外戚として権勢を振るった比企能員が、北条時政の謀略により名越邸で謀殺され、比企一族も小御所に攻められて滅亡した政変。頼家は将軍職を追われ伊豆修禅寺に幽閉され、翌年同地で没した。この事件を機に北条氏が幕政の実権を掌握した。
延暦20〜21年(801〜802年)(延暦16年(797年)征夷大将軍任命)
延暦16年(797年)、坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命され、延暦20〜21年(801〜802年)の第三次蝦夷征討で蝦夷の族長・阿弖流為を降伏させ、胆沢城を築いて鎮守府を移した。武力と懐柔を組み合わせた田村麻呂の征討は東北支配を確立したのみならず、後の源頼朝・足利尊氏・徳川家康へと継承される「征夷大将軍」という武家政権の象徴的称号の歴史的根拠を作った。この征討は日本における武士階級と刀剣文化の展開にとって不可分な出発点となった。
延元3年/暦応元年閏7月2日(1338年8月17日)
延元3年/暦応元年閏7月2日(1338年8月17日)、越前国藤島の燈明寺畷で、南朝方の新田義貞が足利方・斯波高経の軍勢と遭遇戦を演じ、矢を受けて討死した戦い。総大将を失った新田勢は崩壊し、まもなく足利尊氏が征夷大将軍に任じられ室町幕府が確立していく画期となった。
寿永3年1月20日(1184年2月21日)
寿永3年(1184年)1月、源義仲(木曾義仲)が源頼朝の命を受けた義経・範頼の軍勢に敗れ、近江国粟津(現・滋賀県大津市)で討ち取られた戦い。「巴御前」との別れ、松原での一騎討ちを経て矢を受けた義仲が沼地に落馬し討たれたその最期は、軍記物語「平家物語」の白眉として語り継がれ、義仲・巴御前という「義と愛」の象徴とともに日本人の記憶に深く刻まれている。
寿永3年(1184年)1月、源義仲(木曾義仲)と源頼朝方の武将・源義経・範頼が激突した内乱。義仲は宇治川を天然の防衛線として布陣したが、梶原景季・佐々木高綱の「先陣争い」という日本史最大の武勇伝を経て、頼朝軍が突破。義仲は近江粟津で討たれ、鎌倉幕府確立への決定的な一歩が刻まれた。
寿永2年閏10月1日(1183年11月17日)
寿永2年(1183年)閏10月、備中国水島で源義仲方の追討軍と平家水軍が激突した海戦。合戦中に金環日食が起こり、暦法を熟知していた平家方が動揺する源氏方を圧倒して大勝した。
寿永2年5月11日(1183年6月2日)
寿永2年(1183年)5月、木曾義仲(源義仲)が越中・加賀の国境に位置する倶利伽羅峠において、平維盛率いる平家大軍を大破した戦い。牛の角に松明を結びつける「火牛の計」の逸話で知られ、義仲の京都入りへの道を開いた源平合戦の転換点。
寛永11年11月7日(1634年12月26日)
寛永11年(1634年)11月7日、伊賀国上野(現・三重県伊賀市)の鍵屋の辻において、剣客・荒木又右衛門(あらきまたえもん)が義弟・渡辺数馬(わたなべかずま)の仇敵・河合又五郎(かわいまたごろう)一行に対して助太刀し、数馬が又五郎を討ち取った事件。「日本三大仇討ち」のひとつに数えられる江戸時代最大の果し合いであり、荒木又右衛門の卓越した剣技と胆力が伝説となった。
宝治元年(1247年)6月5日
宝治元年(1247年)6月、北条時頼が三浦泰村一族を鎌倉で滅ぼした幕府内部の権力闘争。武士の集団自刃という名誉死の形式を鮮烈に示し、北条氏の権力独占を決定的に固めた政変。
安政5年〜6年(1858〜1859年)
安政5〜6年(1858〜1859年)、大老・井伊直弼が将軍継嗣問題・日米修好通商条約をめぐって反対派を大弾圧した政治事件。吉田松陰・橋本左内ら100名超が処罰され、幕末最大の政治的粛清として知られる。この弾圧が翌年の桜田門外の変を直接招いた。
安元3年5月(1177年6月)発覚、同年6月〜7月にかけて関係者を処断
安元3年(1177年)、後白河法皇の近臣たちが京都東山鹿ヶ谷の俊寛の山荘に集まり平氏打倒を謀ったが、多田行綱の密告により発覚し未遂に終わった政変未遂事件。首謀者たちは処刑・配流され、平清盛と後白河法皇の対立は決定的となった。
天武天皇元年6〜7月(672年)
天武天皇元年(672年)6〜7月、大海人皇子(後の天武天皇)と大友皇子(弘文天皇)が皇位を争った古代日本最大の内乱。大海人皇子が美濃・尾張の豪族を糾合して大友勢を圧倒し、勝利後に天武天皇として即位。律令国家の確立と日本刀の源流となる和刀文化の基盤を形成した。
天正元年8月(1573年8月)
天正元年(1573年)、織田信長が浅井長政の居城・小谷城(近江国・現滋賀県)を総攻撃した合戦。小谷城は天下に名高い山城の要害であったが、信長の大軍と武将たちの連携攻撃の前に陥落。浅井長政は自刃し、浅井氏は滅亡した。この攻城戦は、信長の天下統一への道を大きく開くとともに、後の明智光秀による本能寺の変への遠因をはらんだ。