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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
242件のイベント
天正14年〜15年3月〜6月(1586年〜1587年)
天正14年(1586年)から15年(1587年)にかけて、豊臣秀吉が九州全土を平定した大規模軍事行動。島津義久は剃髪して降伏し、秀吉は九州国分によって諸大名の所領を再編。関東・奥州を残すのみとなる天下統一の総仕上げ段階を告げた。
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天正13年8月(1585年)、慶長5年9月(1600年)
天正13年(1585年)と慶長5年(1600年)の二度にわたり、真田昌幸・幸村父子が小勢をもって徳川の大軍を上田城に退けた合戦。戦国最高の知将と称される真田昌幸の機略が輝いた守城戦の傑作。
天正13年(1585年)3月〜4月
天正13年(1585年)、豊臣秀吉の紀州征伐において、雑賀・根来衆の残る太田城を秀吉軍が水攻めにした攻城戦。堅城の太田城を力攻めで落とせなかった秀吉は、全長約7kmに及ぶ堤をわずか数日で築いて城を水没させ、約1ヶ月の籠城の末に太田左近ら首謀者53名の自害と引き換えに開城させた。備中高松城・忍城と並ぶ「日本三大水攻め」の一つに数えられる。
天正13年(1585年)11月29日
天正13年(1585年)11月29日(旧暦)に発生した天正大地震は、マグニチュード推定7.8〜8.1の巨大地震であり、北陸・東海・近畿の広域に甚大な被害をもたらした。飛騨・越中・近江などの城郭や集落が倒壊し、推定死者数は数千〜1万人以上とも言われる。豊臣秀吉による天下統一直前の時代に発生したこの地震は、名城・名刀の散逸や武将の命運にも深刻な影響を与えた。
天正12年(1584年)9月9日〜11日
天正12年(1584年)9月、小牧・長久手の戦いに呼応して羽柴方に叛旗を翻した越中の佐々成政が、能登の要衝・末森城を1万5千の大軍で包囲した。城将・奥村永福ら300の兵が落城寸前まで持ちこたえるなか、報せを受けた前田利家は2500の兵を率いて夜を徹して駆けつけ、佐々軍の背後を突いてこれを撃退。前田家の運命を決した「加賀の桶狭間」と称される。
天正10年6月13日(1582年7月2日)
天正10年(1582年)6月13日、本能寺の変からわずか11日後に起きた「中国大返し」の到達点。羽柴秀吉が明智光秀を山城国山崎(現・大阪府三島郡)で撃破し、信長亡き後の覇権を手中にした。天王山をめぐる攻防から「天下分け目の戦い」という言葉が生まれた合戦。
天正10年6月〜10月(1582年7月〜11月)
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変による織田信長の横死を受け、空白となった甲斐・信濃・上野の旧武田領を巡って徳川家康・北条氏政・上杉景勝の三者が争った一連の軍事行動。同年を「壬午」(じんご)の年とすることから「天正壬午の乱」と呼ばれる。最終的に家康が甲斐・信濃を制し、三河・遠江に加えて新たな大領主へと飛躍するきっかけとなった戦略的分岐点。
天正10年4月〜6月2日(1582年5月〜6月21日)
天正10年(1582年)4月〜6月、備中国高松城(現・岡山市北区高松)において、羽柴秀吉が清水宗治の籠もる高松城を水攻めにした攻城戦。秀吉が足守川を堰き止めて高松城を水没させた「水攻め」は日本史上最大規模の工事とも言われる。本能寺の変の報を受けた秀吉が「中国大返し」で京都に引き返すきっかけとなった歴史的合戦。
天正10年3月2日(1582年3月2日)
天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐の中で、織田信忠率いる大軍が信濃・高遠城を包囲。城主・仁科盛信はわずか3000未満の兵で抗戦するも一日で落城し、自刃して果てた。武田家滅亡を決定づけた最後の激戦として知られる。
天正10年3月11日(1582年4月3日)
天正10年(1582年)3月、武田勝頼が甲斐国天目山(田野)で織田・徳川連合軍に追い詰められ自刃した合戦。信玄亡きあとわずか10年で滅亡した武田家の最期を告げる悲壮な戦いであり、戦国最強と謳われた武田軍団の終焉を象徴する。
天正10年(1582年)8月
天正10年(1582年)8月、長宗我部元親が阿波の三好・十河連合軍を中富川で大破した合戦。本能寺の変直後の混乱を突いた元親の決断と、一領具足の強兵による電撃作戦が四国統一の決定的な一手となった。
天正10年(1582年)6月16日〜19日
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が横死した直後、上野を治めていた織田家の重臣・滝川一益と、関東の雄・北条氏直の軍勢が武蔵・上野国境の神流川で激突した。戦国期の関東地方で最大規模の野戦とされ、約1万8千の滝川勢は約5万6千の北条勢に大敗、一益は本拠の伊勢長島まで敗走した。信長死後の権力の空白が関東に生んだ大合戦である。
天明元年(1781年)頃〜文政年間(1818〜1830年)
天明元年(1781年)に江戸へ出府した水心子正秀(1749〜1823年)は、当時の刀剣界に漂う華美・形式主義を批判し、「日本刀は古刀の昔に復するべき」とする「刀剣復古論」を提唱した。『刀剣実用論』『剣工秘伝志』などの著作を通じて古刀期の鎌倉・南北朝様式への復帰を説き、全国から100名を超える弟子が工房に集まった。正秀の理論は、大慶直胤・源清麿らと並ぶ「江戸三作」の名工を生み出し、衰退していた日本刀文化を劇的に再生させた。刀剣史における「新刀」から「新々刀」への分水嶺として位置づけられるこの運動は、幕末の刀剣需要急増と相まって、廃刀令前夜までの刀剣黄金期を生み出した。
天文元年(1532年)8月
天文元年(1532年)8月、細川晴元・六角定頼・法華一揆の連合軍が一向一揆の本拠・山科本願寺を焼き払い壊滅させた享禄・天文の乱の決定的事件。本願寺本拠の大坂移転と石山合戦への布石となった。
天文9年(1540年)秋
天文9年(1540年)秋、安芸国郡山城(現・広島県安芸高田市)において、毛利元就が尼子晴久率いる出雲の大軍の攻撃を撃退した合戦。兵力で圧倒的に劣る毛利軍が、元就の巧みな守城戦と反撃により尼子の侵攻を退け、毛利氏が中国地方の覇者へと成長する転換点となった歴史的勝利。
天文7年10月7日(1538年10月23日)
天文7年(1538年)、下総国国府台で小弓公方足利義明・里見義堯らの連合軍と後北条氏の北条氏綱・氏康父子が激突した戦い。義明の戦死により小弓公方は滅亡し、北条氏が下総方面へ勢力を拡大する契機となった。
天文5年7月(1536年)
天文5年(1536年)7月、比叡山延暦寺の僧兵が六角定頼の軍事支援を受けて京都の日蓮宗21本山をすべて焼き討ちにした宗教戦争。応仁の乱を上回るともいわれる大規模な焦土をもたらし、法華宗信徒は6年間京都から追放された。戦国時代における宗教・武力・大名権力の交錯を示す事件。
天文4年(1535年)〜天正7年(1579年)頃の一連の事件
伊勢桑名の刀工一派・村正の作は、松平清康・広忠、徳川家康、松平信康という徳川家四代に降りかかったとされる負傷・死没の逸話が積み重なり、江戸期に「徳川家に祟る妖刀」として語られるようになった。実戦刀としての評価の高さと、東海地方での流通量の多さが伝説形成の背景にあるとみられる。
天文20年9月1日(1551年9月30日)
天文20年(1551年)、大内氏の重臣・陶晴賢が謀反を起こし、西国の文化的大パトロン・大内義隆を長門大寧寺で自刃させた政変。日明貿易と刀工庇護の中心であった大内氏の滅亡は、西国刀剣文化に大きな断絶をもたらした。
天文18年(1549年)
三好長慶が江口の戦いで細川晴元を破り畿内を制覇。室町将軍を凌ぐ権勢を確立し、信長以前に「天下人」の地位を実現した最初の戦国覇者。刀剣文化の流通と需要拡大にも大きく貢献した。
天文17年3月19日(1548年)
天文17年(1548年)3月19日、三河国額田郡小豆坂(現・愛知県岡崎市)において、尾張の織田信秀と、駿河・遠江・三河を治める今川義元(軍を率いたのは太原雪斎)が激突した合戦。岡崎城主・松平広忠の後見をめぐって尾張・織田氏と駿河・今川氏が三河の帰属を争う中で発生し、今川方の勝利により今川氏の三河支配が確定した。二度にわたり同地で戦われたとされ、1548年の戦いは「第二次小豆坂の戦い」とも呼ばれる。
天文17年2月(1548年)
天文17年(1548年)2月、信濃国小県郡上田原(現・長野県上田市)において、武田信玄と村上義清が激突した合戦。武田軍が大敗し、信玄は右太腿に矢傷を負って本陣に退くという稀有な苦戦を喫した。軍師・板垣信方と甘利虎泰という二将を失った武田軍にとって、戦国史上屈指の屈辱的敗北として記憶される。
天文15年4月20日(1546年5月19日)
天文15年(1546年)、北条氏康が80,000の包囲軍に対してわずか8,000の兵で夜間奇襲を敢行した関東最大の奇襲戦。北条・上杉・足利が三つ巴で争う中、氏康の大胆な戦略が上杉朝定・足利晴氏連合軍を壊滅させ、北条氏の関東覇権を確立した。
天文12年8月25日(1543年9月23日)
天文12年(1543年)、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島(現・鹿児島県)に漂着し、日本に初めて火縄銃(鉄砲)がもたらされた歴史的事件。島主・種子島時堯が2挺の鉄砲を購入し、島内の刀工・八板金兵衛らが短期間で国産複製に成功した。鉄砲の普及は戦国時代の戦争様式を根本から変え、長篠の戦い(1575年)での織田信長による鉄砲隊の組織的運用がその頂点となった。日本刀を主軸とした個人武勇の時代から、集団戦・遠距離兵器の時代への転換点となった事件である。