
新着情報 — 最新の入荷情報はカタログをご確認ください。 商品を見る →
天正12年(1584年)9月9日〜11日
能登国 末森城(現・石川県宝達志水町)
勢力
前田軍
佐々軍
約2分で読めます
天正12年(1584年)9月9日から11日(新暦10月12日〜14日)にかけて、能登国の末森城で行われた末森城の戦いは、北陸の覇権をめぐる前田利家と佐々成政の対決であり、前田家にとっての「桶狭間」と称される重要な合戦である。
天正12年、羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康の連合軍が尾張の小牧・長久手で対峙していた。この中央の対決は、そのまま各地の大名の去就を揺さぶった。越中を領する佐々成政は当初は秀吉方であったが、羽柴軍が長久手で苦戦するのを見て織田・徳川方に転じる決断を下す。これにより、隣国加賀・能登を領し羽柴方に与する前田利家との対決が避けられなくなった。成政と利家はともに織田信長の旧臣であり、かつては同僚として肩を並べた間柄であっただけに、両者の対立は北陸を二分する争乱となった。
成政はまず8月末に前田方の朝日山城を急襲し、9月9日には総勢1万5千の大軍で能登の末森城を包囲した。末森城は加賀と能登を結ぶ街道上の要衝であり、ここが落ちれば前田領は南北に分断され、能登の諸勢力が佐々方になびく恐れがあった。成政にとっては、利家の本国を切り崩す戦略的な一手であった。
末森城を守るのは城将・奥村永福(助右衛門)ら、わずか300ほどの寡兵であった。9月10日から戦端が開かれると、佐々軍の猛攻の前に前田方の城代・土肥次茂が討死するなど、城は落城寸前まで追い込まれた。永福は妻とともに兵と領民を叱咤し、乏しい兵力で必死の籠城戦を続けたと伝えられる。
金沢城で急報に接した前田利家は、直ちに2500の兵を率いて出陣した。夜を徹しての強行軍で、農民・桜井三郎左衛門の道案内により海岸沿いの間道を突き進み、9月11日の明け方、末森城に殺到していた佐々軍の背後から奇襲を仕掛けた。城内の守兵と挟撃を受けた佐々軍は崩れ、成政は越中へと退却した。両軍あわせて750名余りの死者が出たと伝えられる。
末森城の守り抜きは、前田利家が加賀・能登・越中を治める大名へと飛躍する重要な転機となった。この戦いの後、成政は守勢に転じ、翌天正13年には秀吉自らの越中征伐によって降伏する。一方の利家は秀吉政権下で重きをなし、五大老の一人として加賀百万石の礎を築いた。
寡兵で大軍を凌いだ末森城の攻防は、奥村永福の武勇と利家の即断による救援劇として、加賀の地に長く語り継がれている。前田家はのちに加賀藩の下で刀剣・刀装文化の保護に力を注ぎ、加賀金工や象嵌細工が発展する土壌を育んだ。度重なる合戦を経て北陸に根づいた武の伝統は、江戸期の加賀の華やかな工芸文化へとつながっていく。