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天文17年3月19日(1548年)
三河国額田郡小豆坂(現・愛知県岡崎市戸崎町周辺)
勢力
今川・松平連合軍
織田軍
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小豆坂の戦い(あずきざかのたたかい)は、天文17年(1548年)3月19日、三河国額田郡小豆坂(現・愛知県岡崎市戸崎町周辺)において、尾張国の織田信秀と、駿河・遠江・三河の太守を目指す今川義元の軍勢が激突した合戦である。同地では天文11年(1542年)にも両者が争ったとされ、史料上は二度の「小豆坂の戦い」が伝わることから、1548年の戦いは「第二次小豆坂の戦い」とも呼ばれる。
三河国岡崎城主・松平広忠は、隣国尾張の織田信秀の侵攻圧力にさらされる一方、駿河の今川義元に助力を求める立場にあった。広忠の父・松平清康は大永4年(1524年)に岡崎城を占領して東西三河をほぼ手中に収めるまでに勢力を拡大したが、天文4年(1535年)、尾張の織田信秀を攻めるべく尾張守山へ出陣した際に家臣に暗殺される「守山崩れ」に倒れ、松平氏の勢力は急速に衰退した。その跡を継いだ広忠は不安定な政権基盤のもとで今川氏への従属を強めており、天文16年(1547年)には嫡男・竹千代(後の徳川家康)を今川氏への人質として送る途上、護送を担った戸田康光の裏切りにより竹千代が織田方に奪われる事件も起きている(今川方への人質輸送中の拉致)。
こうした情勢下で織田信秀は三河への勢力拡大を狙い、岡崎城の攻略を企図した。今川義元は松平氏救援と三河領有の確立を目的として、軍師・太原雪斎(たいげんせっさい)を大将に据えた大軍を三河へ派遣した。
同地における戦いは、記録上1548年より6年前の天文11年(1542年)にも行われたとされる。当時、松平氏の当主であった松平清康が天文4年(1535年)に守山崩れで横死して以降、松平氏の勢力は急速に衰退しており、その空白を突いて織田信秀が西三河への進出を図っていた。これに対し、松平氏を後援する今川義元は西三河から織田勢力を駆逐すべく大軍を差し向け、天文11年8月(西暦9月)、岡崎城東南の小豆坂で両軍が衝突した。この第一次合戦では、織田方に属した織田信光・織田信房・岡田重能・佐々政次・佐々孫介・中野一安・下方貞清の7名の武将が奮戦し、後世「小豆坂七本槍」と称えられた。この武功顕彰により織田方が勝利したと伝えられる。なお第一次合戦については、今川氏による東三河進出が実際には天文12年(1543年)以降であったとする研究上の指摘もあり、史実性に疑問を呈する説も存在する。いずれにせよ、天文17年の戦いはこの6年前の雪辱を期す形で今川方が挑んだ再戦という位置づけを持つ。
天文17年3月、織田信秀は庶長子・織田信広を先鋒とし、4,000余の兵を率いて尾張本国から安祥城を経て矢作川を渡河、上和田に着陣した。これに対し今川義元は約1万の兵を編成し、太原雪斎を大将、朝比奈泰能を副将として出陣させた。
同月19日、今川方の先鋒が小豆坂で織田方の先鋒・信広隊と接触し合戦となった。今川勢は坂の頂上付近に陣を敷いていたため地形上優位に立ち、逆落としに攻め下る形で織田勢の先鋒を突き崩した。織田勢は一時矢作川西岸まで後退して陣を立て直そうとしたが、それまで側面に伏せていた今川方の岡部元信(おかべ もとのぶ、長教とも)隊が横撃を加えたことで総崩れとなり、安祥城へと敗走した。今川方が一時苦戦する場面もあったが、元信が踏みとどまって反撃に転じ織田勢を突き崩したこの働きぶりを、今川義元は特に賞賛したと伝わる。元信はのちの永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでも、最前線の鳴海城を守り抜き、義元討死後も主君の首級と引き換えに開城するという武名を残した人物である。
この戦いは今川方の圧倒的勝利に終わった。今川義元を支えた太原雪斎の軍略——伏兵を用いた側面攻撃と地の利を生かした布陣——が織田勢を打ち破る決め手となったことは、その後の今川氏における雪斎の軍事的信頼を決定づけた。
戦後、今川氏は三河における影響力を大きく拡大し、駿河・遠江・三河にまたがる支配圏を確立していく。松平広忠は今川氏への従属をさらに強めることとなり、竹千代(徳川家康)は結果的に長く今川氏の人質として駿府で過ごすことになった。この今川氏のもとでの人質時代が、後年の家康の忍耐強さや外交感覚を培ったとする見方も伝えられている。
なお、竹千代を織田方に引き渡す結果となった戸田康光の裏切り事件そのものは前年の出来事だが、その後始末は小豆坂の戦いと同じ天文18年(1549年)に決着する。同年3月、広忠が家臣に暗殺されると、今川義元は直ちに岡崎城を接収する一方、織田方の拠点・安祥城を攻略し、信秀の庶子で小豆坂の戦いで織田方先鋒を率いた織田信広を捕虜とした。今川方はこの信広と竹千代との人質交換を実現させ、竹千代はようやく今川家のもとへ引き渡されることとなった。小豆坂で敗走した信広自身が、翌年には人質交換の当事者としてこの三河をめぐる攻防の帰結に関わったことになる。
小豆坂の戦いは、三河・尾張という後の徳川家康の出身地域における戦国動乱の縮図であり、当時の在地武士団が用いた打刀・太刀の実戦運用を示す事例のひとつとして戦国史上言及される。今川氏配下の武将たちは駿河・遠江の刀工(島田派など)の作を用いたとされ、織田方の武将たちもまた尾張の関鍛冶の系譜を引く刀剣を帯びていたと考えられている。三河における今川氏の覇権確立は、後に岡崎城主として独立を回復する松平氏(徳川氏)が今川氏から離反する桶狭間の戦い(1560年)へと続く、三河をめぐる勢力争いの重要な一局面であった。
太原雪斎という人物自体、臨済宗の禅僧でありながら今川家の軍事・外交を統括する稀有な存在であった点も特筆される。義元は幼少期に仏門へ入れられ、雪斎(当時の法名・九英承菊)とともに京都で修行した間柄であり、天文5年(1536年)に今川氏輝・彦五郎が相次いで急死した際に生じた家督争い「花倉の乱」では、雪斎の献策により義元方が異母兄・玄広恵探の籠る花倉城を攻め落とし、恵探を自刃に追い込んで還俗した義元の家督相続を実現させた。この功により義元は雪斎を政治・軍事における最高顧問として厚く信頼するようになった。雪斎はさらに天文23年(1554年)、武田晴信(信玄)・北条氏康との間で甲相駿三国同盟の締結にも尽力し、今川氏の背後の憂いを取り除いて西方(三河・尾張方面)への戦力集中を可能にした人物でもある。小豆坂での勝利は、こうした雪斎の軍才が三河国内外に強く印象づけられる契機の一つとなり、今川義元が「海道一の弓取り」と称されるまでの勢力を築く過程における転換点として位置づけられている。
小豆坂古戦場は現在の愛知県岡崎市戸崎町付近に比定されており、周辺には合戦を伝える石碑や史跡案内が設置されている。地名としての「小豆坂」は現在も残り、戦国期の三河をめぐる攻防を伝える貴重な記憶の場となっている。第一次・第二次と二度にわたり同じ坂で戦われたと伝わるこの古戦場は、尾張・三河国境地帯という地政学的な要衝で織田・今川両氏がせめぎ合った戦国前期の緊張を今に伝える史跡として、地域史・徳川家康研究の双方から注目される場所となっている。