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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
242件のイベント
天文11年(1542年)6月〜天文17年(1548年)9月
天文11年(1542年)から17年(1548年)にかけ、伊達家当主・伊達稙宗とその嫡男・晴宗が家督と外交路線を巡って対立し、南奥羽の諸大名を二分する6年におよぶ大乱に発展した。将軍・足利義輝の仲裁で和睦し、晴宗は本拠を米沢城へ移して体制を再編、後の伊達政宗による奥州制覇の前史となった。
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天慶2年〜天慶4年(939〜941年)
承平・天慶年間(939〜941年)、伊予国の元国司・藤原純友が瀬戸内海の海賊集団を率いて起こした反乱。同時期の平将門の乱(承平天慶の乱の東国部分)とともに律令国家の弱体化を象徴する事件であり、地方武士団と刀剣が歴史の表舞台に躍り出た転換期を代表する。
天平宝字8年(764年)9月〜10月
天平宝字8年(764年)、太師(太政大臣相当)として権勢を極めていた藤原仲麻呂(恵美押勝)が、孝謙上皇の寵愛を受けて台頭した僧・道鏡の排斥を図り兵を挙げた事件。仲麻呂は天皇権力の象徴である鈴印の争奪に失敗して近江へ逃走し、追撃を受けて高島郡勝野鬼江で斬殺された。乱後、淳仁天皇は淡路に配流され、孝謙上皇が重祚して称徳天皇となり、道鏡が太政大臣禅師として権勢を強めた。
天平12年(740年)8月〜11月
天平12年(740年)、大宰少弐に左遷されていた藤原広嗣が、朝廷の実権を握る僧・玄昉と学者・吉備真備の排斥を求めて大宰府で挙兵した奈良時代の内乱。九州各国から徴発した軍勢を率いたが、板櫃川の戦いで朝廷軍に敗れ、広嗣は肥前松浦郡で捕らえられ処刑された。乱を機に聖武天皇は恭仁京・難波宮・紫香楽宮への遷都を重ねる「彷徨五年」に入った。
天保8年(1837年)2月19日
天保8年(1837年)2月19日、元大坂東町奉行所与力・大塩平八郎が民衆救済を掲げて大坂で蜂起。江戸時代最大規模の都市反乱として、幕末志士にも多大な影響を与えた。
天保4年(1833年)〜天保9年(1838年)
天保4年(1833年)から天保9年(1838年)にかけて、日本全土を襲った大規模な飢饉。寒冷化による凶作が続き、特に東北地方で被害が深刻化した。日本全体で約125万人の人口減少を記録し、江戸では毎日150人から200人超の餓死者が発生。飢餓による社会不安の中で、大塩平八郎の乱・天保騒動など大規模な一揆・反乱が相次ぎ、幕末への社会的混乱を加速させた。徳川幕府の統治能力の低下と、江戸時代体制の根本的な危機を露呈した重大事件である。
嘉禎4年/暦仁元年(1238年)頃
嘉禎4年(1238年)頃、備前国長船(現・岡山県瀬戸内市長船町)において光忠(みつただ)が作刀を開始し、備前長船派の基盤を確立した。後鳥羽上皇の御番鍛冶制(1208年)で隆盛した福岡一文字派の技術的遺産を受け継ぎつつ、吉井川流域の地理的優位性と豊富な砂鉄資源を活かして独自の様式を発展させた。光忠の子・長光、孫・景光へと三代にわたり継承された長船派は鎌倉〜室町時代を通じて日本最大の刀剣生産地となり、数多の名将が長船作を愛刀とした。
嘉吉元年6月24日(1441年7月12日)
嘉吉元年(1441年)6月、播磨・備前・美作三国の守護大名・赤松満祐が将軍・足利義教を自邸に招いて暗殺した政変。「万人恐怖」と称された義教の恐怖政治への反発から起きた。満祐は直後に幕府軍に討伐され、守護大名の権力と将軍権威の双方が大きく揺らいだ。
南北朝時代前期(14世紀前半、建武〜貞和年間頃)
南北朝時代前期、大和国出身で正宗門下(正宗十哲)の志津三郎兼氏が美濃国志津へ、越前国敦賀出身の金重が関へと相次いで移住。大和伝と相州伝の技法を融合した実用本位の作風が美濃国に定着し、五箇伝最後の一伝「美濃伝」が確立された。
元治元年7月19日(1864年8月20日)
元治元年(1864年)7月、京都御所の禁門(蛤御門)で長州藩士が薩摩・会津連合軍と激突した幕末最大の市街戦。「元治の大火(どんどん焼け)」で京都の大半が焼失し、長州藩は「朝敵」に指定された。新選組が鎮圧に参戦し、幕末の政治対立が武力衝突に至った転換点。
元治元年(1864年)7月〜11月
元治元年(1864年)8月、禁門の変で朝廷への発砲を犯した長州藩を討伐するため徳川幕府が組織した大規模な征討。西郷隆盛を調停役として長州藩が謝罪・恭順し、無血終結した。
元暦2年2月19日(1185年3月22日)
元暦2年(1185年)2月、源義経が四国・屋島の平家軍を奇襲した源平合戦の重要な戦い。嵐の中の渡海、那須与一の扇の的、平知盛の奮戦——波打ち際での海陸一体戦は義経の天才的用兵を示し、壇ノ浦への布石となった。
元弘元年8月(1331年)〜元弘3年5月(1333年5月)
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が幕府討幕を企て笠置山で挙兵した乱。楠木正成が千早城に籠城して幕府大軍を翻弄し、足利尊氏・新田義貞の離反によって元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡。約140年続いた武家政権が終焉し、建武の新政へと続く中世最大の政変を引き起こした。
元弘3年5月8日〜22日(1333年6月3日〜16日)
元弘3年(1333年)5月、新田義貞が後醍醐天皇の倒幕の令旨を受けて挙兵し、鎌倉幕府の本拠・鎌倉を陥落させた歴史的な戦い。稲村ヶ崎での「引き潮」の奇跡と北条一族の集団自害(東勝寺合戦)——鎌倉幕府の滅亡は、武士の時代の第一の転換点として日本史に刻まれている。
元弘3年5月7日(1333年5月7日)
元弘3年(1333年)5月7日、足利高氏(尊氏)が幕府への叛旗を翻して京都の六波羅探題を攻略した事件。承久の乱(1221年)以来110年余にわたって京都を支配した幕府の「西の目」が崩壊し、同月22日の鎌倉幕府滅亡への決定的な前奏曲となった。正宗が活躍した鎌倉末期の刀剣黄金期が終わり、南北朝の大太刀時代への転換を告げる歴史的事件。
元弘3年2月〜5月(1333年)
元弘3年(1333年)、楠木正成が金剛山(現・大阪府千早赤阪村)の天嶮に築いた千早城にわずか数百の兵で籠城し、幕府の数万の大軍を数ヶ月にわたって撃退した。この奇策と執念の籠城戦が鎌倉幕府軍を釘付けにした間、新田義貞が鎌倉を攻略し、幕府は滅亡した。千早城の戦いは「少数対多数」の戦術的機知が歴史を動かした奇跡の籠城として刀剣・軍記文化に深く刻まれている。
元弘3年〜建武3年(1333〜1336年)
元弘3〜建武3年(1333〜1336年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕後に樹立した天皇親政政権。楠木正成の忠義と足利尊氏の反乱が交錯し、南北朝の動乱と室町幕府成立へと続いた激動の3年間。
元亀元年6月28日(1570年7月30日)
元亀元年(1570年)6月、織田信長・徳川家康の連合軍が浅井長政・朝倉義景の連合軍と近江国姉川河畔で激突した野戦。家康の家臣・榊原康政らの奮戦で戦局を転じ、織田・徳川軍が勝利。浅井・朝倉同盟の瓦解を加速させた合戦。
元亀元年4月(1570年)
元亀元年(1570年)4月、越前国敦賀の金ヶ崎城(現・福井県敦賀市)において、織田信長が朝倉義景討伐のために越前に侵攻中、同盟者・浅井長政の突然の裏切りによって挟撃の危機に陥り、木下秀吉(後の豊臣秀吉)を殿軍に残して強行突破した撤退戦。秀吉が「天下人への足がかり」を掴んだとも言われる「金ヶ崎の退き口」は戦国屈指の名撤退として語り継がれる。
元亀元年(1570年)〜天正二年(1574年)
元亀元年(1570年)から天正二年(1574年)にかけて、伊勢国長島(現・三重県桑名市)で勃発した一向宗(浄土真宗)門徒の大規模な武装蜂起。織田信長は三度の長島攻めを行い、第三次長島攻め(1574年)でついに制圧したが、その際に行った降伏した門徒の大量虐殺は、信長の苛烈な戦い方を象徴する事件として後世に語り継がれている。
元亀元年〜天正8年(1570〜1580年)
元亀元年〜天正8年(1570〜1580年)、織田信長と石山本願寺(浄土真宗の総本山)との間で行われた約10年間にわたる攻防戦。一向宗の武装門徒(一向一揆)が石山(現・大阪城付近)に拠って信長軍と戦い続け、最終的には天皇の勅命による和議で終結した。日本刀と信仰が交差した戦国最長の籠城戦。
元亀4年4月12日(1573年5月13日)
元亀4年(1573年)、上洛を目指し西上作戦を進めていた甲斐の戦国大名・武田信玄は、三方ヶ原で徳川家康を破った後、野田城攻略中に病を発し、甲斐への撤退途上、信濃国駒場にて53歳で死去した。その死は信長包囲網の瓦解と、後の長篠の敗北・武田家滅亡への転換点となった。
元亀3年5月4日(1572年6月5日)
元亀3年(1572年)、日向国(現・宮崎県)において、島津義弘率いる島津軍が伊東義祐率いる伊東軍を奇策で撃破した合戦。寡兵の島津義弘が「釣り野伏せ」の戦術で3倍以上の伊東軍を殲滅し、薩摩・日向の覇権をめぐる抗争で決定的な勝利を収めた。この戦いで義弘の武名は轟き、島津家の日向支配が確立された。「日向の桶狭間」とも呼ばれる薩隅日の合戦史上最重要の戦い。
元亀3年〜天正3年(1572年〜1575年)
元亀3年(1572年)から天正3年(1575年)にかけて、美濃・岩村城をめぐり武田と織田が争った。女城主おつやの方は武田の智将・秋山虎繁との婚姻によって城を守ろうとしたが、長篠合戦後に信長方が城を奪還し、虎繁とおつやの方は処刑された。