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元亀4年4月12日(1573年5月13日)
信濃国駒場(現・長野県下伊那郡阿智村)
勢力
武田軍(西上作戦)
徳川・織田連合軍
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元亀3年(1572年)10月、甲斐・信濃・駿河・西上野を領する戦国大名・武田信玄は、本拠・躑躅ヶ崎館(現・山梨県甲府市)を出陣した。将軍・足利義昭が畿内で強めつつあった「信長包囲網」の一翼を担う形での遠征であり、目的は織田信長そのものよりも、まず信長と同盟する徳川家康の遠江・三河両国を制圧し、上洛への道を切り開くことにあったとされる。武田氏最強と謳われた騎馬隊を中核に、2万5千とも3万ともいわれる大軍が動員され、世にこの遠征は「西上作戦」と呼ばれる。信玄率いる軍は二俣城を攻略した後、遠江国へ深く侵攻していった。
元亀3年12月22日(1573年1月25日)、遠江国三方ヶ原において、武田軍と、徳川家康・織田信長からの援軍(佐久間信盛ら)による連合軍が激突した。結果は武田軍の圧勝に終わり、家康はわずかな供回りとともに命からがら本拠・浜松城へ逃げ帰った。後年、家康はこの惨敗を生涯の戒めとするため、憔悴しきった自身の姿を描かせた「顰像(しかみぞう)」を手元に置いたとする逸話が広く語り継がれている。
三方ヶ原での勝利後、信玄は軍を三河国へ転じ、野田城(現・愛知県新城市)を包囲した。城方はわずかな兵力ながら1か月あまり持ちこたえたものの、元亀4年(1573年)2月、ついに開城した。しかし、ちょうどこの頃から信玄の体調は急速に悪化していたと伝えられる。侍医・板坂法印の記録には、信玄が「膈症(かくしょう)」——現在でいう胃癌または食道癌に相当するとみられる持病を患い、たびたび喀血していたことが記されている。後世の軍記物『甲陽軍鑑』などには、野田城で夜な夜な聞こえる笛の音に聞き入っていたところを城内から狙撃されたという劇的な逸話も残るが、これは同時代の一次史料による裏付けがなく、後世の脚色による伝説とみるのが現在の史学上の見解である。
野田城陥落後も信玄の病状は好転せず、上洛の続行は困難と判断された。近習・一門衆による合議の結果、信玄は上洛を断念し甲斐への撤退を決定する。三河と信濃を結ぶ三州街道を北へ向かう途上、信濃国駒場(現・長野県下伊那郡阿智村、一説には浪合や根羽の地とも伝わる)にて、元亀4年4月12日(1573年5月13日)、信玄は53歳でその生涯を閉じた。天下統一への野望半ばでの、あまりに突然の死であった。
信玄は死に臨み、自らの死を3年間秘匿すること、遺骸を諏訪湖に沈めること、そして孫にあたる武田信勝(嫡男・義信の子)が16歳になるまでは四男・勝頼が陣代として家督を代行することを遺言したと伝えられる。しかし実際には、信玄の死は比較的早い段階で近隣諸国の諜報網を通じて知れ渡ったとされ、秘匿の徹底は成し得なかった。
信玄の急死は、当時畿内で形成されつつあった信長包囲網の求心力を大きく損なった。上洛を目指す最大の軍事的脅威が消えたことで、織田信長は本願寺・浅井・朝倉といった他の敵対勢力の掃討に集中する余裕を得ることとなった。家督を継いだ勝頼は父の遺志を継いで積極的な軍事行動を展開したが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて、織田・徳川連合軍が構築した馬防柵と鉄砲の運用の前に武田自慢の騎馬隊は壊滅的な打撃を受け、山県昌景・馬場信春ら歴戦の重臣を多数失った。この大敗を境に武田家は急速に勢力を減じ、天正10年(1582年)には天目山の戦いで勝頼が自刃し、戦国大名としての武田家はついに滅亡した。信玄の死は一人の英雄の終焉にとどまらず、戦国後期における東国の勢力図と天下統一への道筋を決定づけた歴史的な転換点であった。