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1573-01-01
三河国設楽郡野田(現・愛知県新城市野田)
勢力
武田軍
野田城守備隊(徳川方)
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元亀3年(1572年)秋から翌元亀4年(1573年)にかけて行われた武田信玄の「西上作戦」は、甲斐・信濃・遠江・三河を席巻し、徳川家康を三方ヶ原の戦いで壊滅的に打ち破った歴史的大遠征であった。その西上作戦の最終局面となったのが、三河国設楽郡(現・愛知県新城市)に位置する野田城の攻城戦である。野田城の戦いは、「甲斐の虎」武田信玄が戦場で采配を振るった最後の合戦として歴史に刻まれている。
元亀3年(1572年)10月、武田信玄は甲斐躑躅ヶ崎館(現・山梨県甲府市)を発し、総勢約30,000の大軍を率いて西上の途に就いた。この「西上作戦」は、単なる徳川領への侵攻にとどまらず、背後の織田信長への対抗を視野に入れた大戦略であった。信玄は織田・徳川同盟を分断し、畿内の足利義昭・三好残党・本願寺などの反信長勢力と連携することで、信長包囲網の決定的な一環を担おうとしていた。
信玄軍は遠江国(現・静岡県西部)に入り、二俣城(現・浜松市天竜区)を攻略した後、浜松城(徳川家康の居城)を脅かした。元亀3年12月22日(旧暦)——新暦の1573年1月25日——、浜松城への帰還途中の家康軍3,000〜8,000(諸説あり)が武田軍約30,000と三方ヶ原(現・浜松市北区)で激突した「三方ヶ原の戦い」が起きた。この戦いは武田軍の圧倒的勝利であり、徳川軍は壊滅状態となった。家康は命からがら浜松城に逃げ込んだとされ、この時の失態を忘れまいと「しかみ像」(しかめっ面の肖像画)を描かせたという伝説が残る。
三方ヶ原の大勝の後、武田信玄は三河国へ侵攻を続け、元亀3年12月末から野田城の包囲を開始した。野田城は徳川方の将・菅沼定盈(すがぬまさだみつ)が守る小規模な支城であったが、地形を利用した堅固な守りで知られていた。
武田軍の総勢に対して守備兵はわずか500名程度とされる。それでも菅沼定盈は野田城に籠って頑強に抵抗した。長期の包囲戦が続く中、野田城攻略において特に語り伝えられるのが「信玄の銃弾」の逸話である。信玄の陣所に夜な夜な聞こえてくる城内の笛の音に信玄が心を動かされ、陣の外に出て聞き入っていたところ、城内から狙撃され銃弾を受けたという話が江戸時代から伝わっている。この伝承の史実性については諸説あり、信玄の死因については「銃弾による傷」「持病の悪化(肺結核とも伝わる)」など様々な説が存在する。
元亀4年(1573年)2月、野田城はついに開城・降伏した。菅沼定盈は城を明け渡し、武田軍に捕らえられた。しかし信玄はこの直後、急速に体調を悪化させた。
野田城を落とした後、信玄は甲斐への帰途に就いた。しかしその体調は日に日に悪化し、元亀4年(天正元年)4月12日(旧暦)——新暦の1573年5月13日——、信濃国駒場(現・長野県下伊那郡阿智村)において武田信玄は死去した。享年53歳。
信玄は死を直前に控え、嫡男・武田勝頼に「3年間は死を秘匿せよ」と遺言したと伝えられる。しかしこの秘密は長くは保てず、信玄の死は程なく周辺諸将に知れ渡ることとなった。西上作戦の目標であった対信長包囲網の形成は、信玄の死によって瓦解した。
信玄の死の翌天正元年(1573年)9月には、足利義昭が信長に追放されて室町幕府は事実上滅亡し、信玄が期待した反信長連合は実現しなかった。その後の武田氏は勝頼の代に急速に衰退し、天正10年(1582年)の武田氏滅亡(武田勝頼・甲州征伐)へと至る。
武田信玄と刀剣の関係は深く、多くの伝承が残る。信玄は戦国武将の中でも特に刀剣に強い関心を持ち、名刀の収集と下賜を政治的手段として積極的に活用した。
甲斐武田家が所持した名刀の中で最も有名なのが「三日月宗近(みかづきむねちか)」である。三日月宗近は平安時代末期(10〜11世紀)の刀工・三条宗近の作とされ、天下五剣(日本を代表する五振りの名刀)の一つに数えられる。柔らかく優雅な反りと、刃中に浮かぶ三日月形の打ちのけが特徴的で、後に足利将軍家から豊臣秀吉の正室・高台院へ、そして徳川秀忠へと伝わった(現在は東京国立博物館蔵・国宝)。信玄との直接の関係については諸説あるが、三日月宗近が武田信玄ゆかりの刀として語られることは多い。
また信玄は、甲斐国の刀工への後援も行っており、甲州鍛冶(甲州刀)の発展に貢献した。戦国時代の甲斐・信濃では多くの刀工が活躍し、信玄軍の兵士たちが携えた刀剣の多くはこれらの地元刀工が手がけたものであった。
野田城の戦いに際しては、城内の守備兵・菅沼定盈の降伏とともに、城に保管されていた刀剣・武具も武田軍に接収されたと考えられる。戦国時代の攻城戦においては、陥落した城の武具庫は戦利品の宝庫であり、名刀・名槍は新たな主君への忠誠の証として再配分される慣行があった。信玄がその生涯の最後の戦場となった野田城で手にした戦利品には、三河の土地に根ざした刀工の作品も含まれていたであろう。
野田城の戦いは、単体での規模や激烈さにおいては三方ヶ原の戦いや川中島の戦いに及ばない。しかしこの小さな城の攻城戦が、武田信玄の生涯を閉じる最後の舞台となったことで、日本史上特別な意味を持つ合戦として記憶されてきた。
信玄が死ぬことなく西上作戦を継続していた場合、歴史はどう変わっていたか——この「歴史のIF」は、後世の歴史家・小説家・ゲームクリエイターたちによって繰り返し論じられてきた。信長が窮地に陥っていたのは事実であり、信玄の健在が少なくとも数年続いていたならば、天下統一の主役は信長ではなく信玄になっていた可能性も否定できない。
現在の愛知県新城市には野田城跡が残り、史跡として保存されている。「信玄最後の城」として歴史ファンの訪問が絶えない聖地となっており、信玄が笛の音に誘われて銃撃されたと伝わる場所の近辺には、その伝説を記した碑文も立てられている。野田城の戦いは、歴史の流れを決定的に変えた小さな戦場の一つとして、今なお戦国時代の語り部であり続けている。