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元亀3年5月4日(1572年6月5日)
日向国真幸院木崎原(現・宮崎県えびの市)
勢力
島津軍
伊東軍
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元亀3年(1572年)5月4日、日向国(現・宮崎県)の木崎原において、島津義弘(しまず よしひろ)率いる島津軍が伊東義祐(いとう よしすけ)率いる伊東軍に対して奇跡的な勝利を収めた。「木崎原の戦い」は、わずか300〜500(諸説あり)の島津軍が、3倍以上の伊東軍3,000を相手に「釣り野伏せ(つりのぶせ)」という島津独自の包囲殲滅戦術を駆使して大勝した合戦であり、「薩摩の関ヶ原」とも「日向の桶狭間」とも称される薩隅日三州(薩摩・大隅・日向)の戦国史上最重要の合戦のひとつである。
この戦いで島津義弘は武将としての名声を確立し、後の耳川の戦い(1578年)・沖田畷の戦い(1584年)・朝鮮の役(1592〜)・関ヶ原の戦い(1600年)へと続く「鬼島津」の伝説の原点となった。
日向国(現・宮崎県)は、薩摩・大隅の島津氏と、日向を本拠とする伊東氏が激しく争った地域であった。伊東氏は日向国の有力な守護代出身の武家であり、最盛期には日向国内の48城を支配するほどの勢力を誇った。一方の島津氏は薩摩・大隅を本拠とし、日向への進出を図っていた。
島津義弘は兄・義久(4兄弟の長兄)を支える弟として、日向の前線に配置されていた。木崎原の戦いの時点で義弘は元亀3年(1572年)に三十代後半の働き盛りの武将であった。伊東氏が日向国内の島津方の拠点・飯野城(いいのじょう)方面に大軍を進めてきたことが、この合戦の直接的な引き金となった。
「釣り野伏せ(つりのぶせ)」は島津家が独自に発展させた戦術で、少数の部隊が敵の正面を受け、わざと退却することで敵を追撃させ、待ち伏せした伏兵の包囲網に誘い込んで包囲殲滅する戦法である。兵力で劣る島津軍がこの戦術を磨き上げたのは、南九州という地理的条件(山地・丘陵・狭隘な地形)と、敵の大軍を分散させる必要性から生まれた創意工夫であった。
木崎原の戦いにおいて島津義弘は、まず少数の部隊を前面に出して伊東軍を誘引し、追撃してくる敵を狭い地形に引き込んだ。その後、左右と背後に潜んでいた伏兵が一斉に飛び出して伊東軍を包囲。数の優位を持つ伊東軍は、突然の包囲に混乱して統制を失い、各所で壊走した。
この戦法は単純に見えて、実行には高度な連携と冷静な判断力が必要であった。前面の部隊が実際に「逃げている」ように見せながら伏兵の位置まで誘導し、かつ伏兵の飛び出しのタイミングを正確に合わせなければならない。義弘はこの困難な戦術を完璧に実行し、数十倍の兵力差(一説に約6〜10倍)を覆す大勝利を収めた。
島津義弘は武将として刀剣を深く愛し、薩摩の刀工文化を後援した人物として知られる。薩摩国(現・鹿児島県)は独自の刀剣文化を持つ地域であり、「薩摩新刀」と呼ばれる刀工群が室町末期から江戸初期にかけて活発に活動した。波平(なみひら)派・妙円(みょうえん)派などの薩摩刀工は、実用的で豪快な作風の刀を製作し、島津家の武士たちに広く愛用された。
義弘が木崎原の戦いで帯刀していた刀については詳細な記録が残っていないが、薩摩の武将として薩摩刀工の作品を愛用していたと考えられる。義弘は後年、朝鮮の役(1592〜1598年)においても刀剣を愛用し、「泗川の戦い」(1598年)では圧倒的な明・朝鮮連合軍を相手に「島津の退き口」の奇策で生還したことで知られる。
薩摩刀の特徴として知られるのは、「薩摩拵(さつまこしらえ)」と呼ばれる独特の刀装具様式である。黒塗り鞘・黒蒔絵の鐔・鮫皮の柄巻きなど、全体的に黒を基調とした武骨な装いは、薩摩武士の質実剛健の気風を象徴している。木崎原の戦いで義弘が率いた島津軍の武士たちも、この薩摩拵で身を固めた精鋭であったと考えられる。
また島津義弘自身も刀剣の鑑定・収集に関心を持ち、各地の合戦で手に入れた名刀を大切にしたとの記録がある。関ヶ原の戦い後に徳川家から圧力を受けながらも島津家の独立を守り通した義弘は、最晩年まで鹿児島において刀剣文化の保護に尽力した。
元亀3年5月初旬、伊東義祐の命を受けた伊東軍(一説に3,000)が日向国の飯野城方面へ進出してきた。島津義弘は飯野城の救援のために出陣したが、兵力は約300〜500(諸説あり)という寡兵であった。
義弘は釣り野伏せの準備として、まず地形の下見と伏兵の配置を念入りに行った。木崎原の地形(谷筋・丘陵)を最大限に活用し、伏兵を適切な位置に配置した後、少数の先鋒隊を前面に出して伊東軍と接触させた。
先鋒隊は伊東軍と小競り合いを演じた後、わざと後退した。伊東軍が追撃してくると、先鋒隊は谷筋に敵を引き込みながら逃げ続けた。ここで義弘が見計らって合図を送ると、左右の丘陵に潜んでいた伏兵が一斉に飛び出して伊東軍を包囲した。
突然の包囲に伊東軍は大混乱に陥り、組織的な抵抗ができなくなった。義弘自身も刀を手に最前線で戦い、島津軍の将兵を叱咤激励した。伊東軍は大将・伊東祐安をはじめ多数の武将が討ち取られ、壊走した。
木崎原の戦いの勝利によって、島津氏は日向国における支配権を決定的に強化した。この戦いでの大勝によって義弘の武名は九州全体に轟き、島津軍の「釣り野伏せ」の恐ろしさが広く知られるようになった。
伊東氏はこの敗戦を契機に急速に衰退し、天正5年(1577年)には伊東義祐が本拠を捨てて豊後の大友宗麟のもとへ亡命する事態となった。これにより島津氏は日向国を完全に支配下に置いた。
その後、島津義弘は兄・義久とともに九州制覇に向けて攻勢を続け、天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友氏の大軍を撃破し、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討ち取るなど、九州の大半を制圧した。木崎原の戦いは、この島津家の九州制覇の出発点となった歴史的な勝利であった。
「鬼島津」と呼ばれるようになった義弘の武名は、後の文禄・慶長の役(1592〜1598年)における泗川の大勝・「島津の退き口」、さらに関ヶ原の戦い(1600年)での西軍参加と敵中突破という伝説的な活躍へと続いていく。木崎原の戦いは、その「鬼島津」の原点であった。