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元亀元年〜天正8年(1570〜1580年)
摂津国石山(現・大阪府大阪市中央区、大阪城付近)
勢力
織田軍
石山本願寺・一向一揆
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石山合戦(いしやまかっせん)は、元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)にわたる、織田信長と石山本願寺の間の長期にわたる武力衝突である。日本史上、信長が直面した最も粘り強い抵抗のひとつであり、信仰と武力、一向一揆の組織力と戦国大名の権力が正面からぶつかった歴史的事件として知られる。
石山本願寺は、現在の大阪城が建つ台地上に位置する浄土真宗(一向宗)の総本山であった。北は淀川・大和川、南は上町台地が天然の防壁となるこの地は、軍事的観点からも要衝中の要衝であった。第11世法主・顕如(けんにょ)は宗教的権威と武力組織(一向一揆)の双方を掌握し、紀伊・摂津・近江・越前など各地の門徒衆を動員できる「宗教的な大大名」とでも言うべき存在であった。
信長が石山本願寺と対立するようになったのは、天下布武(てんかふぶ)を掲げた信長の覇権拡張路線と、各地の一向一揆が根本的に相容れなかったためである。元亀元年(1570年)9月、顕如は信長に対して初めて軍事行動を起こし、近江・摂津の門徒衆に蜂起を呼びかけた。ここに石山合戦の幕が開いた。
石山合戦の特徴は、その長期性にある。信長は石山を幾度となく包囲したが、本願寺は毛利氏の水軍による海上補給路を確保し、海の補給線を断たれない限り籠城を続けることができた。
天正4年(1576年)7月、第一次木津川口の戦いでは、毛利水軍が織田の水軍を火攻めで壊滅させ、石山への補給ルートを開いた。信長はこれに対し、天正6年(1578年)11月の第二次木津川口の戦いで、新たに建造した大型の鉄甲船(鉄板張りの安宅船)を投入して毛利水軍を撃破した。この鉄甲船の使用は、日本の海戦史において画期的な出来事として記録されている。
一方、籠城衆の内部では、顕如の長男・教如(きょうにょ)を中心に徹底抗戦派と和議派の対立が生じていた。最終的に天皇の勅命による和議勧告が行われ、顕如は天正8年(1580年)閏3月に和議を受諾して4月に石山を退去した。しかし子の教如はこれを不服として籠城を続けたが、同年8月に石山を明け渡して退去した。この顕如と教如の確執は、後に本願寺が東本願寺と西本願寺に分裂する遠因となる。
石山合戦において注目すべき刀剣文化的側面は、「信仰と刀の結びつき」という問題である。
一向一揆の武装門徒たちは、「一向宗(浄土真宗)の教えに殉ずる」という強固な信仰心を持って戦った。「進むも退くも地獄、退けば極楽」——一向一揆に伝わるこの精神的標語は、彼らの戦闘意欲を驚異的なレベルに引き上げた。その武装の中心には刀・槍・弓・鉄砲があり、門徒の中には刀工や鍛冶師も含まれていたとされる。
紀伊(現・和歌山県)や摂津(現・大阪府北部)の刀工は、一向宗門徒との繋がりを持つ者も多く、石山に供給された刀剣には地元の刀工が鍛えた品が多数含まれていたと考えられる。紀伊や摂津など畿内周辺の刀工の作品は、一向一揆の活動した地域と地理的に重なる。
信長側の将・荒木村重は、摂津の守護代として石山包囲に加わっていたが、天正6年(1578年)に突如として信長に背き、有岡城に籠城した(有岡城の変)。村重は茶人でもあり、刀剣の目利きとして知られており、この裏切りは石山合戦の複雑な政治的構造を示している。
信長は石山本願寺を10年にわたって攻め続けながら、並行して他の敵と戦い続けるという二正面作戦を余儀なくされた。武田信玄との対峙(三方ヶ原、長篠)、朝倉・浅井の討滅、毛利との攻防、そして天正10年(1582年)の本能寺の変まで、信長の生涯は絶え間ない戦いの連続であった。
石山本願寺の堅守は、単なる軍事的事件にとどまらず、信仰集団が政治権力と対等に渡り合い得ることを示した点で革命的であった。この合戦の経験は、豊臣秀吉が「刀狩り(かたながり)」(天正16年・1588年)を実施し、武士以外の刀剣所持を禁じる政策を打つ遠因のひとつとなったとも言われている。
石山本願寺が退去した跡地には、信長が城郭の建設を計画し、信長の死後に豊臣秀吉が壮大な大坂城を築いた。石山合戦の場は、やがて豊臣氏と徳川氏の最後の決戦・大坂の陣の舞台となる——日本刀と武士の時代の最後の章のひとつを形成する歴史の連鎖である。