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元亀3年〜天正3年(1572年〜1575年)
美濃国恵那郡岩村(現・岐阜県恵那市岩村町)
勢力
武田軍(秋山虎繁、後に岩村城守備)
織田軍
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美濃国東濃地方に位置する岩村城は、標高717mの山上に築かれた城で、備中松山城・高取城とともに「日本三大山城」の一つに数えられる。江戸時代の諸藩の居城の中で最も高所に築かれた城として知られ、鎌倉時代初期に源頼朝の重臣・加藤景廉の長男・遠山景朝が築いたと伝えられ、以後、遠山氏(東濃遠山氏)の居城として東濃地方の中心的城郭となった。「霧ヶ城」の別名を持つこの城が全国にその名を知られるきっかけとなったのが、元亀3年(1572年)から天正3年(1575年)にかけて繰り広げられた武田・織田両家の争奪戦、そしてその中心にいた「女城主」おつやの方の悲劇である。
岩村城主・遠山景任の没後、その妻であったおつやの方——織田信長の叔母にあたる——が女城主として城を預かり、東濃を統治していた。信長は叔母を深く信頼し、自らの子・御坊丸を養子として遠山家に送り込むなど、東濃を織田の勢力圏に組み込もうとしていた。当時、東濃は武田と織田の勢力がせめぎ合う境界地帯であり、岩村城はその最前線に位置する戦略的要衝であった。信長にとって東濃の確保は、美濃・尾張という本拠地の背後を固め、武田の侵攻を食い止める上で欠かせない布石であった。おつやの方は夫の死後も女性ながら領国経営の手腕を発揮し、東濃における織田方の代理人として重責を担っていた。標高717mの山頂に築かれたこの城の堅固さは、その支配の要としてふさわしい規模と防御力を備えていた。
元亀3年(1572年)、武田信玄は西上作戦の一環として、重臣・秋山虎繁(信友とも)を東濃攻略に派遣した。秋山は武田二十四将の一人に数えられる剛勇の将であり、岩村城を包囲した。秋山はおつやの方に対して和議を持ちかけ、その条件は、おつやの方自身が虎繁の妻となれば、籠城している者たちの命を保証するというものであった。織田方の救援を待てなかったおつやの方はこの条件を受け入れ、岩村城は大きな戦闘を経ることなく武田方の手に落ちた。信長は、遠山家の養子として送り込んだ実子・御坊丸が武田方の人質となったことを知り激怒したと伝えられるが、当時は西上作戦の最中でもあり、ただちに反撃に転じることはできなかった。この一件により、東濃全域の勢力図は武田方優位へと大きく傾き、織田領国の東の防衛線は大きく揺らぐこととなった。秋山虎繁は武田家譜代の重臣であり、信濃先方衆の統率や外交交渉に長けた智将として知られていた。単なる猛将にとどまらず、和議や調略を巧みに用いる政治的手腕にも優れていたことが、この婚姻策の成功からもうかがえる。虎繁のこうした柔軟な戦略眼は西上作戦において重要な役割を果たしたが、皮肉にもその調略の成功が信長の激しい怒りを買い、のちの悲劇的な結末を招く一因ともなった。岩村城が位置する東濃は、美濃・尾張という織田家の本拠地に隣接する地域であり、この地を失うことは信長にとって単なる領土の喪失以上の脅威を意味していた。信玄の西上作戦は、東濃・遠江・三河の複数の方面から同時に織田・徳川領へ圧力をかける広域的な戦略であり、秋山虎繁による岩村城攻略はその一翼を担うものであった。信玄が元亀4年(1573年)に病没し、勝頼が跡を継いだ後も、岩村城は武田方の東濃支配の拠点として機能し続けたが、長篠の戦いでの大敗によって、その戦略的な優位は根底から覆されることとなった。
天正3年(1575年)5月、信長は長篠の戦いで武田勝頼の軍勢を打ち破り、鉄砲隊の威力によって武田の精鋭騎馬軍団に壊滅的な打撃を与えた。この勝利によって武田の軍事力は決定的に衰退した。その勢いのまま、信長は嫡男・織田信忠に岩村城の奪還を命じた。信忠軍の攻撃を受けた秋山虎繁は、兵と家臣の命を助けるという条件で降伏したが、信長はこの約束を反故にし、秋山虎繁とおつやの方を岐阜において逆さ磔という残酷な方法で処刑したと伝わる。血縁である叔母に対してさえ容赦しなかったこの処断は、信長の非情さと、戦国の権謀術数の極みを象徴する出来事として今日まで語り継がれている。この処刑は、単なる軍事的勝利にとどまらず、武田方についた者への見せしめという政治的意味合いも強く帯びていたと考えられている。おつやの方が最終的に受け入れた運命は、政略と血縁が複雑に絡み合う戦国という時代の非情さを象徴するものであった。信長にとって岩村城の奪還は、単に一城を取り戻す以上の意味を持ち、東濃全域における織田方の支配を再確立する重要な一歩となった。
岩村城が位置する東濃地方は、関を中心とする美濃伝刀剣文化圏の東端にあたる。美濃伝は日本刀の五箇伝の一つに数えられ、兼元・兼定をはじめとする美濃の刀工たちは、「折れず、曲がらず、よく切れる」実戦的な刀を数多く鍛え、戦国武将たちから絶大な支持を受けていた。長篠の戦いにおいて武田の精鋭騎馬軍団が織田・徳川の鉄砲隊に壊滅させられたことは、白兵戦から遠距離戦への戦術転換を象徴する出来事でもあった。現在、恵那市岩村歴史資料館では岩村城の絵図など岩村藩ゆかりの資料が展示されている。
岩村城下町には、かつて武田・織田両家の争奪の舞台となった歴史の痕跡が今も色濃く残っている。江戸時代以降、酒蔵や老舗商家が軒を連ねる城下町は重要伝統的建造物群保存地区に選定され、当時の面影を今に伝えている。本丸北東側にそびえる「六段壁」と呼ばれる壮大な石垣群は江戸後期に整備されたと考えられているが、その規模と精緻さは城郭建築の粋を集めている。岩村城の戦いは、単なる領土争いにとどまらず、政略結婚によって城と領民を守ろうとした女城主の決断と、それを許さなかった甥・信長の冷酷な報復という、戦国の人間ドラマを凝縮した事件である。この悲劇は岩村城を「女城主の城」として歴史に刻み、江戸時代には松平家・丹羽家など複数の大名が城主を務め、岩村藩として幕末まで続いた。今なお霧に包まれた石垣とともに、おつやの方と秋山虎繁の物語は訪れる者にその数奇な運命を語りかけている。
岩村城をめぐるこの一連の攻防は、単なる軍事的な争奪にとどまらず、政略結婚・人質・裏切りといった戦国外交のあらゆる要素を凝縮した事例として、後世の歴史家や文学作品からも高い関心を集め続けている。城跡を歩けば、女城主として領国を治めたおつやの方の気概と、その運命を弄んだ戦国の非情さの両方を今に感じ取ることができる。