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元弘3年5月7日(1333年6月19日)
山城国京都・六波羅(現・京都府京都市東山区)
勢力
足利高氏・赤松円心・佐々木道誉ら倒幕勢
六波羅探題(鎌倉幕府側)
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六波羅探題の滅亡(ろくはらたんだいのめつぼう)は、元弘3年(1333年)5月7日、足利高氏(のちの尊氏)が幕府への叛旗を翻して京都の六波羅探題を攻略・滅亡させた事件である。鎌倉幕府の「西の目」として承久の乱(1221年)以来約110年間にわたって京都に君臨した六波羅探題の崩壊は、鎌倉幕府滅亡(同年5月22日)の決定的な前奏曲となった。この事件は後醍醐天皇の倒幕運動が結実した瞬間であり、南北朝時代という新たな動乱の幕開けでもあった。日本刀の歴史においては、南北朝期の「大太刀」「長刀」ブームへとつながる刀剣文化の転換点に位置する重要な事件である。
元弘元年(1331年)に後醍醐天皇が倒幕を企て失敗し(元弘の乱)、隠岐島に流されていた。しかし元弘3年(1333年)閏2月、天皇は隠岐を脱出して伯耆国(ほうきのくに)船上山(せんじょうさん)で再び挙兵した。幕府は有力御家人の足利高氏を大将として討伐軍を派遣した。高氏は源氏の名門として室町幕府を後に開くほどの実力を持ち、多くの御家人からの期待を集めていた。しかし高氏は上洛の途中、丹波国篠村八幡宮(たんばのくにしのむらはちまんぐう)に立ち寄り、同年4月29日、突如として幕府への叛旗を翻した。この「篠村八幡宮の挙兵」は日本史の転換点として著名であり、高氏は後醍醐天皇への忠誠を宣言して諸国の武士に檄文を発した。
足利高氏が篠村八幡宮で挙兵すると、播磨の赤松円心(あかまつえんしん)・近江の佐々木道誉(ささきどうよ)ら反幕府勢力が高氏と呼応した。5月7日、高氏率いる軍勢と赤松勢が挟撃する形で京都に迫り、六波羅探題の兵力は圧倒された。南探題・北条時益は逃走途上、東山付近で野伏に襲われ討死し、北探題・北条仲時(ほうじょうなかとき)は後伏見上皇・花園上皇・光厳天皇を奉じて東へ逃走した。しかし逃走する探題勢は近江の番場(現・滋賀県米原市)で行き場を失い、5月9日に北条仲時以下432人が自害した(番場崩れ)。京都を制圧した足利高氏は、後醍醐天皇の入京を迎える準備を整えた。
六波羅探題の滅亡が象徴する鎌倉幕府の崩壊と南北朝の動乱(1336〜1392年)は、日本刀の形状に劇的な変化をもたらした。鎌倉時代の太刀(たち)は反りが深く、馬上戦に最適化された優美な形状を持っていたが、南北朝時代には合戦の様相が急変した。戦場では大規模な集団戦が展開され、特に「南北朝の大太刀」と呼ばれる刀身が90cm〜120cmを超える巨大な刀が登場した。大太刀は騎馬武者が馬上から振り下ろすほか、徒歩の武士が両手で扱う大型兵器として機能した。また延文・貞治年間を中心に、身幅が広く大型で豪壮な作風の太刀が多く作られた。
六波羅探題が滅亡した1333年は、刀工・正宗(まさむね)が活躍した時代と重なる。正宗は相模国(現・神奈川県)鎌倉を拠点とした伝説的な刀工である。正宗が確立した「相州伝」(そうしゅうでん)は、地鉄の粘り強さと沸(にえ)が激しく活発な刃文を融合させた独自の技法であり、後の刀剣技術に決定的な影響を与えた。正宗の作風は門下の貞宗に受け継がれた。後世には金重らの名工が「正宗十哲」として正宗に結び付けられたが、作刀年代が重ならず実際の師弟関係はないとされる。鎌倉幕府が崩壊し、その庇護のもとで繁栄した鎌倉の刀剣産業も転換期を迎えたが、相州伝の技法は備前・山城・大和各地の刀工に広まり、南北朝〜室町時代の刀剣文化の基盤となった。
六波羅探題の陥落に続き、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉に迫り、元弘3年(1333年)5月22日に最後の得宗・北条高時が東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅亡した。後醍醐天皇は建武の新政(1333〜1336年)を開始したが、公家中心の施策が武士の不満を招き、足利尊氏が離反した。延元元年(1336年)、尊氏は湊川の戦いで楠木正成を討ち、京都を制圧して北朝を擁立し、室町幕府を開いた。後醍醐天皇は吉野(奈良)に南朝を建て、ここに南北朝時代が始まった。南北朝の動乱は1392年の明徳の和約まで続き、その56年間の戦乱は日本刀の形状・技法・精神文化に深刻かつ豊かな影響を与えた。
六波羅探題の滅亡は、鎌倉時代の武士文化・刀剣文化から南北朝・室町時代への移行を象徴する出来事である。鎌倉幕府の後ろ盾のもと備前長船・山城・大和・相模の刀工が繁栄した時代が終わり、南北朝の動乱という新たな文脈で日本刀の需要が爆発的に増大する時代が始まった。南北朝時代の大規模合戦は「大太刀」「野太刀」という刀剣の大型化を促し、一方で精緻な鑑賞用の名刀への需要も続いた。六波羅探題の崩壊と南北朝の動乱は、日本刀が「武器としての機能」と「美術品・精神的象徴としての価値」を同時に追求する特有の発展軌道を歩む転換点として、刀剣史において不可欠な位置を占めている。
足利高氏が篠村八幡宮で幕府への叛旗を翻した「篠村八幡宮の挙兵」は、日本中世史における最も劇的な「神前での決断」の一つである。武士にとって八幡神は武神・武家の守護神として特別な位置を占め、八幡宮の前での誓いは戦場における生死を賭けた最も重い誓約であった。高氏が神前で幕府への反逆を宣言した行為は、神明への誓いを通じて武士としての決意を固めるという武士道の実践そのものであった。中世の武士は出陣の際、氏神や守護神に名刀を奉納して戦勝を祈願し、凱旋の後には感謝の奉納を行う慣習を持っていた。六波羅探題の滅亡という歴史的大事件の起点となった篠村八幡宮の挙兵は、武士・神明・刀剣という三者が一体となって中世日本の運命を動かした象徴的な場面として、刀剣史・宗教史・政治史の交点に位置している。