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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
242件のイベント
元亀2年9月12日(1571年10月)
元亀2年(1571年)9月、織田信長が比叡山延暦寺(現・滋賀県大津市)を焼き討ちにし、堂宇・僧坊・門前町を灰燼に帰した事件。信長は僧俗男女を問わず山上の住人を殺戮し、千年以上の歴史を持つ「仏教の総本山」を一夜にして廃墟とした。この行為は当時の人々に深刻な衝撃を与え、「魔王」としての信長像を決定づけた。同時に、宗教権力と世俗権力の関係を根本から塗り替えた歴史的事件である。
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仁安2年2月11日(1167年2月)
仁安2年2月(1167年2月)、平清盛は武士として史上初めて太政大臣に任じられた。保元・平治の乱での軍事的勝利を足がかりに朝廷内の地位を積み上げてきた清盛は、この最高位就任によって平氏政権の実質的な完成を告げた。外戚・姻戚政策と日宋貿易の経済力を背景とした平氏の専制支配は、刀剣を携えた武士が政治の頂点に立った日本史最初の事例であり、鎌倉幕府への道を準備した歴史的転換点であった。
享徳3年12月27日(1455年1月15日)〜文明14年(1482年)
享徳3年(1454年)に始まり約28年間続いた関東の大乱。第五代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を殺害したことを発端とし、古河公方(足利成氏)と関東管領上杉氏・幕府の対立が続いた。この長期内戦が東国に戦国時代の到来を告げ、関東の刀工集団の活動にも大きな影響を与えた。
享保4年(1719年)11月3日
享保4年(1719年)11月3日、8代将軍徳川吉宗の命を受けた本阿弥光忠が「享保名物帳」を編纂・献上した。平安時代以降の名刀274振(現存刀168口・焼失80口・追記26口)を銘・来歴・寸法・評価額とともに体系的に記録したこの名刀目録は、江戸幕府の享保の改革を背景に、武士の刀剣鑑識眼の涵養を目的として作成された。現代でも刀剣研究の必須資料として参照され続ける「日本刀のバイブル」として、日本刀文化の体系化における金字塔的事業となった。
万延元年3月3日(1860年3月24日)
万延元年(1860年)3月3日、大老・井伊直弼が江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士18名に暗殺された幕末最大の政治テロ。「安政の大獄」への報復として決行されたこの事件は幕府権威の崩壊を象徴し、「尊王攘夷」運動を激化させた。
万延元年(1860年)頃、近藤勇が虎徹入手を志したとされる時期を起点とする通説
新選組局長・近藤勇は「最上大業物」に格付けされる名工・長曽祢虎徹の刀を愛刀としたと伝わるが、当時すでに虎徹の真作は希少で偽銘が横行しており、近藤の刀も源清麿門系の作に虎徹銘を偽刻したものである可能性が高いというのが現在の通説である。
663-08-27
天智天皇2年(663年)、倭国は百済復興を支援して唐・新羅連合軍と朝鮮半島で激突し、壊滅的敗北を喫した。倭国史上最大規模の海外派兵が失敗に終わったこの戦いは、日本が大陸進出を断念して独自の国家建設に転換する歴史的転換点となった。東アジアの技術交流の拠点であった百済の滅亡と敗戦体験は、唐の鉄製武器・刀剣技術を日本が独自吸収・発展させる契機となり、後の太刀様式の確立に重要な影響を与えた。
1877年2月15日〜9月24日(明治10年)
明治10年(1877年)2月〜9月、西郷隆盛を盟主とする薩摩士族が新政府に反乱した最後の士族反乱。「刀対銃」の象徴として知られ、城山の戦いでの西郷の自刃は「最後の武士」の終焉を告げた。廃刀令(1876年)直後の武士道の最後の炎。
1877-08-21
明治10年(1877年)8月から11月まで、東京・上野公園で第一回内国勧業博覧会が開催された。前年の廃刀令で市場を失った刀鍛冶と刀装金工が、自らの技術をどの産業分野へ接続し直すかを問われた、殖産興業最初の国家的舞台であった。
1876年10月24日(明治9年)
明治9年(1876年)10月、熊本の旧士族集団「敬神党(神風連)」が廃刀令・秩禄処分に抗議して兵器近代化に反発し、刀と槍のみで熊本鎮台を夜襲した反乱。近代的銃火器を「不浄」として拒否した神道的思想と武士の誇りが交錯した、日本近代史上最も異質な反乱のひとつ。
1868年8〜9月(慶応4年8〜9月)
慶応4年(1868年)8〜9月、戊辰戦争の一環として行われた会津藩と新政府軍の決戦。鶴ヶ城(会津若松城)を舞台に繰り広げられた激戦は、白虎隊の悲劇とともに「武士の最期」を象徴する戦いとして後世に伝えられた。
1868年7月4日(慶応4年5月15日)
慶応4年(1868年)5月、上野・東叡山寛永寺を拠点とした彰義隊が新政府軍と激突した戊辰戦争最初の江戸市街戦。わずか半日で彰義隊は壊滅し、旧幕府の抵抗勢力は東北へと退いた。
1868年5月3日(慶応4年4月11日)
慶応4年4月11日(1868年5月3日)、新政府軍の江戸総攻撃を前に、西郷隆盛と勝海舟の会談によって江戸城が無血開城された。百万都市・江戸の市街地戦を回避した歴史的決断は、近代日本最大の「流血なき革命」として世界史にも類を見ない政権交代の一幕となった。
1868年5〜9月(慶応4年5〜9月)
慶応4年(1868年)5〜9月、越後国長岡藩が奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と戦った戊辰戦争。家老・河井継之助がガトリング砲を駆使して新政府軍を苦しめ、「最後の武士」とも称される壮絶な戦いを展開した。
1868年1月3日(慶応3年12月9日)
慶応3年12月9日(1868年1月3日)、明治天皇の名のもとに発せられた王政復古の大号令。摂関・幕府を廃止し、総裁・議定・参与の三職からなる新政府の樹立を宣言した。同日夜の小御所会議で徳川慶喜の辞官・納地が決定され、江戸幕府の実質的な終焉となった。
1867年11月9日(慶応3年10月14日)
慶応3年10月14日(1867年11月9日)、第15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上した幕末最大の政治的転換。265年に及ぶ江戸幕府の統治に終止符を打ち、維新政府への権力移行を可能にした日本史上の画期的事件。
1867-11-15
慶応3年(1867年)11月15日夜、薩長同盟の立役者・坂本龍馬は京都河原町の近江屋において暗殺された。享年33。大政奉還の成就を見届けた直後の死は、新時代の夜明け直前に散った悲劇として語り継がれている。犯人の正体は今日も確定されておらず、刀で斬り殺された最期は幕末に刀と銃が入り混じった時代の終焉を象徴している。
1864年7月8日(元治元年6月5日)
元治元年(1864年)6月、京都・池田屋旅館において、新選組が尊王攘夷派志士の密議を急襲した事件。近藤勇・沖田総司・土方歳三らが活躍し、倒幕運動の一時的頓挫をもたらした幕末最大の剣客事件。
1864-09-05
文久3年〜元治元年(1863〜1864年)、長州藩が外国船を砲撃したことに対し、英米仏蘭4カ国連合艦隊が下関を報復攻撃した戦争。元治元年(1864年)9月5日(旧暦8月5日)、17隻の連合艦隊が関門海峡の長州砲台を集中砲撃して制圧し、長州軍は壊滅的な敗北を喫した。この戦争は長州藩に攘夷の不可能性を悟らせ、倒幕・明治維新への転換点となった。
1864-03-27
元治元年(1864年)3月27日、水戸藩の尊王攘夷過激派「天狗党」が藤田小四郎・武田耕雲斎の指導のもと筑波山に挙兵し、幕府軍・佐幕派諸藩と戦った幕末水戸藩最大の内乱。京都をめざして西上した天狗党は、越前・敦賀で降伏し、武田耕雲斎ら353名が処刑された。攘夷思想の発祥地・水戸藩を舞台にした、尊攘運動の悲劇的な末路。
1863-08-15
文久3年(1863年)7月2日〜3日(旧暦)、薩摩藩とイギリス艦隊が鹿児島湾で交戦した戦争。生麦事件の賠償を求めて来航した英国艦隊7隻に対し、薩摩砲台が砲撃を開始。英艦は薩摩の艦船を焼き払い市街を砲撃したが、薩摩も激しく抵抗し英艦を大破させた。この戦争を機に薩摩は攘夷の非現実性を悟り、英国との関係を改善して倒幕・近代化路線に転換した。
1863-03-13
文久3年(1863年)、幕府の要請によって京都守護職配下の浪士組から再編された「新選組」は、幕末の京都を舞台に尊王攘夷志士を鎮圧した剣士集団である。局長・近藤勇、副長・土方歳三のもと、隊士たちは精鋭無比の剣術と峻厳な法度によって恐れられた。日本刀の実戦使用が最後に輝いた時代として、幕末剣術史において特別な位置を占める。
1862年4月23日(文久2年3月23日)
文久2年(1862年)4月、京都・伏見の旅館「寺田屋」で薩摩藩が藩士同士の斬り合いを行った事件。尊王攘夷急進派の薩摩藩士を、薩摩藩主島津久光が自らの藩士を送って制圧・粛清した。坂本龍馬の寺田屋遭難(1866年)とは別事件。幕末の藩内政治と剣術の交差点として日本刀文化史に重要な位置を占める。
1701年4月21日(元禄14年3月14日)/ 討ち入り: 1703年1月30日(元禄15年12月14日)
元禄14〜15年(1701〜1703年)、播磨国赤穂藩主・浅野内匠頭が江戸城内で吉良上野介に斬りつけ改易となり、翌年に大石内蔵助率いる四十七士が吉良邸に討ち入りを果たした事件。日本の「義」と武士道を体現した歴史的事件。