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享徳3年12月27日(1455年1月15日)〜文明14年(1482年)
関東全域(武蔵・相模・上野・下野・上総・下総・常陸等)
勢力
古河公方方(足利成氏)
関東管領上杉氏・幕府方
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享徳3年(1454年)12月27日、第五代鎌倉公方・足利成氏(あしかが しげうじ)は、関東管領・上杉憲忠(うえすぎ のりただ)を鎌倉の屋敷に招いて謀殺した。この突発的な暗殺事件が、約28年間にわたって関東全域を戦乱の渦に巻き込んだ享徳の乱の引き金となった。この長期内戦は、京都における応仁の乱(1467年〜)と並び、日本が全国的な戦国時代へと突入する分水嶺となった出来事であり、東国における戦国時代の実質的な幕開けを告げるものであった。
刀剣史の観点から見ると、享徳の乱は関東・東国の刀工集団の活動に深刻な影響を与えた。28年間の戦乱は武器需要を高める一方で、従来の刀剣生産の体制を根本から揺るがした。この乱の後、関東から江戸にかけての刀工集団は新たな保護者を求めて移動・再編を余儀なくされ、後の江戸新刀文化への布石となった。
享徳の乱の根本的な原因は、室町幕府(京都)と鎌倉府という二重権力構造の矛盾にある。鎌倉府は東国支配のために設置された幕府の出先機関であり、鎌倉公方(くぼう)がその長を務めた。しかし鎌倉公方は足利一族の一員として独立性が高く、その補佐役である関東管領(かんとうかんれい)の上杉氏との権力争いが繰り返されていた。
足利成氏の父・持氏(もちうじ)は、かつて幕府に反旗を翻して滅ぼされた(永享の乱・1438年)。成氏は父の汚名を抱えながら鎌倉公方に就任したが、上杉氏への根深い不信感と怨恨を持ち続けた。享徳3年12月の上杉憲忠謀殺は、この長年の対立が爆発した結果であった。
上杉憲忠殺害後、成氏は幕府から討伐命令を受けた。幕府は今川範忠を派遣し、鎌倉の制圧を試みた。成氏は鎌倉を脱出し、下総国の古河(現・茨城県古河市)に拠点を移した。ここに「古河公方」の成立を見る。
古河を根拠地とする足利成氏は、千葉氏・結城氏など東国の旧来からの武士団を糾合し、関東管領の上杉氏(山内上杉・扇谷上杉の両家)に対抗した。一方、幕府は堀越公方(ほりごえくぼう)として足利政知を伊豆に送り込み、成氏に対する権威の対抗軸を作ろうとした。この東国二元政権の並立は関東の武士社会を深く分断し、諸国の武士たちはいずれかの陣営に属することを余儀なくされた。
享徳の乱は単一の会戦で決着がつくような性格の戦争ではなく、関東全域にわたる断続的な戦闘・攻城戦・陰謀が28年間にわたって続く消耗戦であった。
山内上杉氏と扇谷上杉氏はともに古河公方との戦争を担ったが、やがて上杉両家の間にも対立が生じ始めた(後の長享の乱・1488年〜への伏線)。古河公方方では、成氏の死後もその子孫が古河公方として戦乱を継続した。この長期戦の中で、関東の武士社会は根本的に変容した。血族・主従関係が再編され、より実力主義的な「戦国型」の秩序が台頭し始めた。
この変容の中で最も重要なのは、北条早雲(伊勢宗瑞)による相模国制圧(1491年〜)の布石が整えられたことである。享徳の乱による関東の疲弊と権力真空が、早雲による後北条氏台頭への道を開いた。享徳の乱がなければ、後北条氏による関東支配も、その後の北条五代の繁栄も存在しなかったと言える。
享徳の乱が日本刀の歴史に与えた影響は、主として東国の刀工集団の移動・再編という形で現れた。
関東には古来より刀工が存在したが、室町時代中期における刀工の主要産地は依然として備前・山城・相州(鎌倉)であった。享徳の乱は、鎌倉を中心とした相州伝の刀工文化に直接的な打撃を与えた。成氏が鎌倉を脱出し古河に移ったことで、鎌倉の武家文化の中心地としての機能が失われた。相州伝の刀工たちの活動が大きく制約される中、一部の刀工は戦乱を逃れて他の地域へと移動した。
一方、28年間の戦乱は東国全域において武器需要を高めた。古河公方方・上杉氏方のいずれの武士団も、大量の刀・槍・弓矢を必要とした。この軍事需要に応えるため、実用的な「量産型」の刀が東国各地で生産された。刀剣の生産が「名工による名品」から「戦場での実用品」へとシフトする動きは、享徳の乱以降の東国において特に顕著であった。
享徳の乱後に確立した後北条氏の支配下では、小田原周辺の刀工が活発化した。北条氏は刀工の保護・育成に積極的であり、「小田原鍛冶」と呼ばれる刀工集団が発展した。この小田原の刀工文化は、後の江戸時代・江戸新刀文化の一角を形成する重要な源流となった。
享徳の乱の歴史的意義は、しばしば応仁の乱(1467年〜)の陰に隠れて過小評価されがちである。しかし東日本という視点から見れば、享徳の乱こそが関東・東国における戦国時代の実質的な出発点であった。
応仁の乱が西日本(畿内・西国)における戦国化を促したように、享徳の乱は東日本(関東・東国)の戦国化を促した。この二つの大乱が、日本全体を戦国時代へと推し進めた双璧となった。
関東の武士社会が享徳の乱によって変容した結果——古河公方の成立、上杉両家の台頭と争い、後北条氏の登場——は、川中島の戦い(上杉謙信vs武田信玄)や小田原合戦(豊臣秀吉の後北条氏攻め)へと続く戦国東国史の基礎となった。日本刀の歴史という観点からも、享徳の乱は「東国刀剣文化の変容点」として、より広く認識されるべき出来事である。