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仁安2年2月11日(1167年2月)
京都(朝廷において任官)
勢力
平氏(清盛政権側)
(対立勢力——後白河法皇・東国武士団)
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仁安2年2月11日(1167年2月)、平清盛は太政大臣に任ぜられた。太政大臣は律令制における最高官職であり、平安時代には藤原氏の独占的権威の象徴でもあった。武士(もとは朝廷の警護・地方の治安維持を担う実力集団)がこの地位に就くことは前例のない歴史的事件であり、清盛はわずか3か月でこの職を辞したものの、この事実は武家が政治の中枢を掌握する時代の到来を告げるものであった。
平清盛(1118〜1181年)は平忠盛の嫡男として生まれた。忠盛は白河・鳥羽両上皇に仕えた有能な武士で、清盛はその家格と人脈を継承した。清盛の台頭を決定的にしたのは二つの政変であった。
保元元年(1156年)の保元の乱では、後白河天皇方について源義朝とともに崇徳上皇・藤原頼長方に勝利した。この内乱は「武士が天皇の権威を守るために戦う」という平安時代以来の武士の在り方から、「武士が政治的抗争の主役となる」という新たな段階への転換点であった。
平治元年(1159年)の平治の乱では、後白河上皇の近臣・信西を後ろ盾とする清盛側が、源義朝・藤原信頼方を討って完全な勝利を収めた。源義朝は逃亡中に殺され、その遺児・頼朝は伊豆に流された。平治の乱の結果、朝廷の軍事力は実質上、清盛の掌握するところとなった。
清盛が太政大臣就任後も、平氏の権勢拡大は続いた。清盛の娘・徳子を高倉天皇の中宮(皇后)として入内させ、その間に生まれた子を第81代天皇・安徳天皇として即位させた(治承4年・1180年)。これにより清盛は天皇の外祖父となり、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉して実権を完全に掌握した。
平氏の権勢を経済的に支えたのが日宋貿易であった。清盛は兵庫(大輪田泊)の港を整備し、宋との直接貿易を推進した。宋からは陶磁器・銅銭・香料・書籍などが輸入され、日本からは金・砂金・刀剣・硫黄などが輸出された。特に日本刀(太刀)は宋において高く評価され、平氏の重要な輸出品の一つとなった。この貿易で得た巨富が、清盛の軍事力・人材確保・御家人への恩賞を可能にした。
平氏の知行国(平氏一門が国司職を独占する国)は最盛期に30余国に達し、一門から公卿16人を輩出するなど、かつて藤原氏が独占した朝廷内の地位を平氏が事実上置き換えた。
平清盛が活躍した平安末期は、日本刀の様式が急速に発展した時代でもある。この時期に「太刀」と呼ばれる湾刀(反りのある片刃の長刀)が武士の主要な佩刀として確立し、備前・山城・大和・相州(鎌倉期以降)の各刀工集団が高度な技術を発展させていた。
日宋貿易において日本刀が重要な輸出品となったことは、平氏政権下で刀剣の品質と名声が国際的に認められたことを意味する。宋の文献には「倭刀」として日本刀が記録されており、その切れ味と仕上げの優秀さが賞賛されている。平氏の貿易船を通じて中国に渡った日本刀は、以後の中日間の文化交流の重要な媒介となった。
平氏の武士団は騎馬戦闘を主体とする実戦的な軍事組織であり、各武将は高品質の太刀と甲冑を装備した。保元・平治の乱での勝者として確立した清盛の武威は、平氏一門の武具・刀剣へのこだわりを高め、御用刀工への需要を生み出した。
清盛は治承5年(1181年)、熱病により64歳で没した。清盛の死後、源頼朝を中心とした東国武士団による「治承・寿永の乱」が激化し、文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで平氏は西海に沈んだ。
しかし清盛が作り上げた「武士が政治の最上位に立てる」という先例は消えなかった。源頼朝が建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられて鎌倉幕府を開いた際、その正統性の一部は「武士も最高の政治権力を担いうる」という平氏の前例の上に成立していた。平清盛の太政大臣就任は、武家政権という日本独自の政治形態の歴史的なプロトタイプであった。
平清盛に関連する刀剣の伝承は後世にも語り継がれた。平氏ゆかりの太刀として伝わるものの中には、厳島神社(清盛が篤く崇敬した)に奉納された刀剣類がある。平氏が厳島神社を氏神として崇敬したことで、多数の武具・刀剣が奉納・蒐集され、中世の刀剣文化における神社奉納という慣行の重要な事例を残した。