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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
242件のイベント
1656-00-00
明暦2年(1656年)、50歳の甲冑師・長曽根虎徹が江戸に移住し、甲冑製造から刀工へと転身。後に「江戸の名刀工」と称えられることになる歴史的転機。
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1637年10月25日〜1638年4月12日(寛永14年10月25日〜寛永15年2月28日)
寛永14〜15年(1637〜1638年)、肥前国島原・天草地方のキリシタン農民が天草四郎時貞を大将として幕府に反乱。約37,000人が原城に籠城し、12万の幕府軍と激戦の末に鎮圧された。江戸時代最大かつ最後の大規模一揆であり、鎖国政策を決定づけた事件。
1615年5月(慶長20年4月〜5月)
慶長20年(1615年)5月、徳川家康が豊臣家を滅ぼした最後の決戦。真田幸村が家康本陣へ決死の突撃を敢行し、その壮絶な最期は「日本一の兵(つわもの)」と称えられた。
1614年10月〜12月(慶長19年9月〜12月)
慶長19年(1614年)10月〜12月、徳川家康が豊臣秀頼の居城・大坂城を攻囲した合戦。真田幸村が「真田丸」を築いて徳川軍を撃退し、砲撃戦・和議交渉が絡み合う複雑な攻防戦となった。翌年の夏の陣への直接の前哨戦。
1606-00-00
初代康継が徳川家康より「康継」の名と三葉葵紋の使用を許可され、江戸刀剣工芸の象徴的な地位を確立した歴史的瞬間。
1600年10月21日(慶長5年9月15日)
慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の決戦が美濃国関ヶ原で行われた。東軍・徳川家康と西軍・石田三成が激突し、わずか一日で日本の覇権が決した歴史的大合戦。
1600-09-02
慶長5年(1600年)7月、関ヶ原前夜に徳川家康が下野国小山で召集した軍議。福島正則ら東軍諸将の忠誠を取り付け、会津征伐から西軍討伐へと方針転換した天下の分岐点。
1597-01 〜 1598-12
慶長2年(1597年)、文禄の役から4年の休戦を経て豊臣秀吉が再び朝鮮へ大軍を送り込んだ。蔚山城の籠城戦(加藤清正)、島津義弘の露梁海峡の戦いにおける決死の退き口など、日本刀と鉄砲が混在する近世戦争の実態を刻んだ戦役である。秀吉の病死によって戦争目的を失い全軍撤退。朝鮮半島に甚大な人的・文化的損害を与えた。
1590年4月〜8月(天正18年3月〜7月)
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が大軍を率いて北条氏の本拠・小田原城を包囲した合戦。3ヶ月以上にわたる長期包囲の末、北条氏政・氏直父子が降伏し、氏政が切腹して、100年続いた後北条氏が滅亡。秀吉の天下統一が完成した歴史的事件。
1587年1月20日(天正14年12月12日)
天正14年(1586年)12月、豊臣秀吉の九州征伐の先鋒を務めた仙石秀久・長宗我部信親らが、豊後国戸次川(現・大分市)で島津軍と戦い大敗した。長宗我部元親の嫡男・信親が戦死し、四国一の猛将の死が元親と長宗我部家に深刻な打撃を与えた合戦。
1585年11月17日(天正13年10月8日)
天正13年(1585年)11月、奥州の雄・伊達政宗が、佐竹・蘆名・二階堂・白河連合軍と陸奥国の人取橋(現・福島県本宮市)で激突した。数倍の敵に包囲されながら奮戦した17歳の政宗は、辛くも敗退を避けた。東北戦国史の一大転換点となった合戦。
1585-07-25
天正13年(1585年)7月、羽柴秀吉が約10万の大軍を四国に送り込み、四国を統一した長宗我部元親を降伏させた。元親は土佐一国のみの安堵にとどまり、秀吉の天下統一が一歩進んだ。四国攻めは紀州攻め直後に行われた秀吉の西国平定の集大成の一つである。
1585-07-11
天正13年(1585年)7月11日、豊臣秀吉は関白に就任し、武家として初めて最高の朝廷官職に登り詰めた。翌年の九州平定、天正18年の小田原攻め・奥州仕置を経て天下統一を完成。天正16年(1588年)の刀狩令により武士以外の帯刀を禁じ、兵農分離政策を完成させることで日本刀の「武士の専有物」としての地位を法的に確定した。
1584年3月24日(天正12年3月24日)
天正12年(1584年)3月、九州の覇権をかけた龍造寺隆信と島津・有馬連合軍の決戦。肥前国沖田畷(現・長崎県島原市)で、「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信が奇策を用いた島津軍に討ち取られた。九州戦国史の転換点となった合戦。
1584年3月〜11月(天正12年)
天正12年(1584年)、本能寺の変後の後継者争いをめぐり、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が激突した合戦。長久手において家康軍が秀吉方の池田恒興・森長可らを討ち取る局地的大勝を収めたが、軍事的決着はつかず、政治交渉で秀吉が優位を確立した。
1583年4月21日(天正11年4月20日)
天正11年(1583年)4月、近江国賤ヶ岳(現・滋賀県長浜市)周辺で繰り広げられた羽柴秀吉と柴田勝家の覇権争い。本能寺の変後の「織田家後継者」をめぐる武将間の権力闘争であり、「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる七人の猛将の活躍で知られる。
1582年6月21日(天正10年6月2日)
天正10年(1582年)6月2日未明、天下統一目前の織田信長が京都・本能寺において家臣・明智光秀の謀反により討たれた。日本史上最大の謀叛として、後世に深く刻まれた事件。
1582-06-21
天正10年(1582年)6月、本能寺の変直後に徳川家康が堺から伊賀・甲賀を経て三河岡崎城へ脱出した逃避行。服部半蔵らに護衛された命がけの旅は、後の天下統一への布石となった徳川家の建国神話である。
1581年(天正9年)6月〜10月
天正9年(1581年)、羽柴秀吉が鳥取城を包囲し、兵糧攻めによって城兵・城下民を極限の飢餓状態に追い込んで落城させた兵糧攻め(渇え殺し)。秀吉の天才的な作戦立案と、城将・吉川経家の悲劇的な死が織り成す戦国最大の苛烈な籠城戦のひとつ。城内では人肉食まで起きたとされる凄惨な籠城の末、吉川経家は自刃して城兵の助命を実現した。
1581-1585
織田信長の武将・佐々成政が、1581-1585年の期間に越中国を統一。豊山城の改築と魚津城の包囲戦を通じて、火縄銃時代の攻城戦を象徴。
1581-09
天正9年(1581年)9月、織田信長は次男・信雄(のぶかつ)を総大将に任じ、4万を超える大軍で伊賀国に侵攻した。二年前の第一次侵攻の失敗(天正7年)の雪辱を果たすべく、信長自ら作戦を指揮した「第二次天正伊賀の乱」である。忍びの里として知られる伊賀は組織的な抵抗を試みたが、圧倒的兵力差の前に数日で壊滅した。この戦いは、武士の刀剣文化と忍者の暗器・短刀文化が正面から衝突した珍しい歴史事例である。
1579-06-01
天正7年(1579年)6月、明智光秀が数年に及ぶ丹波攻略を完成させ、難攻不落の八上城(現・兵庫県丹波篠山市)を落城させた。城主・波多野秀治・秀尚兄弟は信長の命により処刑され、丹波国全域が光秀の支配下に入った。光秀の丹波統治は後の本能寺の変にまつわる伝説とも深く結びついている。
1578年11月12日(天正6年11月11日)
天正6年(1578年)11月、日向国(現・宮崎県)で島津義久率いる島津軍が大友宗麟の大軍を撃破した合戦。決戦地の名から「高城川の戦い」とも呼ばれる。島津の「釣り野伏せ」の前に大友軍は壊滅し、敗走中に耳川で多数が溺死した。「九州三国志」の大きな転換点となり、大友氏の衰退と島津氏の九州制覇への道が開かれた。
1577-09-01
天正4年(1576年)秋〜天正5年(1577年)9月、上杉謙信が能登国の拠点・七尾城(現・石川県七尾市)を包囲・攻略した攻城戦。謙信は一年近い長期包囲の末、城内の疫病流行と内通者の裏切りによって七尾城を陥落させ、能登国をほぼ平定した。七尾城陥落の報は謙信が手取川の戦いで織田信長の軍勢を破る直前のことであり、謙信の北陸制覇の頂点を示す戦いである。