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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
242件のイベント
1575年5月21日(天正3年5月21日)
天正3年(1575年)5月21日、三河国長篠(現・愛知県新城市)において、織田信長・徳川家康の連合軍が武田勝頼の軍を大敗させた合戦。信長が組織的な鉄砲三段撃ちを用いたとされ、戦国合戦の戦術革命をもたらした「火縄銃の時代」の象徴的戦い。
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1573-08-17
天正元年(1573年)8月、織田信長の猛追により朝倉義景は居城・一乗谷城を捨てて逃亡。百年の栄華を誇った朝倉氏はわずか数日で滅亡し、越前の刀剣文化も大きな打撃を受けた。
1573-01-01
元亀3年(1572年)12月〜元亀4年(1573年)2月、武田信玄が徳川家康の支城・野田城(現・愛知県新城市)を包囲・攻略した合戦。信玄は三方ヶ原の戦いで家康を大敗させた後、野田城を攻め落としたが、この攻城中に信玄は銃弾を受けたとも落城直後に病が悪化したとも伝えられ、その後甲斐への帰途に死去した。野田城の戦いは信玄の西上作戦の最終局面であり、信玄最後の合戦として歴史に刻まれる。
1572年12月22日(元亀3年12月22日)
元亀3年(1572年)12月、武田信玄率いる武田軍が遠江・三方ヶ原で徳川家康軍を大破した合戦。信玄の生涯最後の遠征であり、家康が生涯最大の敗北を喫した戦い。「しかみ像」に代表される家康の屈辱と、信玄の戦略的天才が語り継がれる。
1570-09-16
元亀元年(1570年)9月〜12月、浅井・朝倉連合軍と比叡山延暦寺が結託して信長を包囲した志賀の陣。信長は朝廷の仲介による屈辱的な和議を余儀なくされたが、翌年の比叡山焼き討ちへの決意を固めた転換点となった。
1570-08-20
元亀元年(1570年)8月、大友宗麟の大軍が龍造寺隆信の本拠・佐嘉城を包囲した今山合戦において、龍造寺家の重臣・鍋島信生(後の直茂)が夜襲を敢行し、大友軍総大将・大友親貞を討ち取った。この勝利により龍造寺氏は肥前制覇への道を開き、九州戦国史の転換点となった。
1567-09-01
永禄10年(1567年)8月、織田信長が美濃国の斎藤龍興から稲葉山城(現・岐阜城)を奪取した攻城戦。木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の内応工作と精鋭による奇襲が功を奏し、信長は念願の美濃制覇を成し遂げた。信長はこの城を「岐阜城」と改め、天下布武の号令の地として天下統一の拠点に据えた。
1564-02-06
永禄7年(1564年)2月、竹中重治(半兵衛)はわずか16人の手勢で難攻不落の稲葉山城を奪取した。暗君・斎藤龍興を諌めるための義憤から生まれた奇策は、半兵衛の天才的な軍略家としての名声を後世に伝える伝説となった。
1560年6月12日(永禄3年5月19日)
永禄3年(1560年)5月19日、尾張の小大名・織田信長が、今川義元率いる大軍に奇襲をかけ、義元を討ち取った。兵力差を覆した歴史的奇跡の戦いは、信長の天下への第一歩となった。
1555年10月1日(天文24年9月30日)
天文24年(1555年)10月、安芸の毛利元就が瀬戸内海の聖地・厳島に陶晴賢の大軍を誘い込み、奇策と水軍を駆使してわずかな兵力で撃破した合戦。「三矢の訓え」で知られる元就が中国地方の覇者への道を確立した戦略的大勝利である。
1553〜1564年(天文22〜永禄7年)、第四次:1561年10月(永禄4年9月)
天文22年〜永禄7年(1553〜1564年)にかけて、信濃国川中島周辺で繰り広げられた武田信玄と上杉謙信の五度にわたる合戦。とくに永禄4年(1561年)の第四次合戦は両将が一騎打ちに及んだとも伝えられ、戦国最大の激戦として名高い。
1541-1556
油商人から身を起こした斎藤道三が、1541-1556年に美濃国を統一。火縄銃導入と刀工統制により、戦国期の権力再編と兵器体系の革新を象徴。
1530
常陸国の剣術家・塚原卜伝が、鹿島地方の武術を体系化し、新當流を創立。刀剣文化の理論的基礎を確立した重要な事象。
1467年〜1477年(応仁元年〜文明9年)
応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)にかけて、室町幕府の将軍継嗣問題をきっかけに勃発した大乱。細川勝元の東軍と山名宗全の西軍が京都を戦場に11年にわたって激突し、戦国時代の幕を開けた。
1285-12-17
弘安8年(1285年)11月、鎌倉幕府の有力御家人・安達泰盛が内管領の平頼綱に滅ぼされた政変。北条得宗専制体制が確立される一方、御家人社会の分裂を深め、幕府衰退の遠因を形成した。
1221年(承久3年)
承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を企て挙兵したが、幕府軍の圧倒的な大軍に惨敗。上皇は隠岐に流され、朝廷の権威は大きく失墜した。鎌倉武家政権の確立を決定づけた政変。
1189-04-30
文治5年(1189年)閏4月30日、源義経は兄・源頼朝の追討軍に追い詰められ、奥州平泉の衣川館において妻子を刺した後に自刃した。享年31。壇ノ浦で平家を滅ぼした英雄の悲劇的な最期は「判官贔屓」という文化概念を生み出し、義経ゆかりとされる名刀の伝説とともに今日まで語り継がれている。
1185年4月25日(元暦2年/寿永4年3月24日)
元暦2年(1185年)3月24日、長門国壇ノ浦(現・山口県下関市)の海上で、源義経率いる源氏軍が平家軍を壊滅させた水上決戦。安徳天皇と三種の神器が海中に沈み、平家が滅亡した歴史的海戦。
1185-11-28
文治元年(1185年)、源頼朝は後白河法皇から守護・地頭設置権を認められ、武家による統治機構「鎌倉幕府」の実質的な基盤を確立した。貴族社会が支配してきた日本に初めて武士が政権を握るこの転換は、日本刀が武士の魂・権威の象徴として尊崇される文化的素地をつくり出した。
1184年3月20日(寿永3年2月7日)
寿永3年(1184年)2月、源義経・源範頼率いる源氏軍が摂津国一ノ谷の平氏軍を奇襲した合戦。義経の「鵯越の逆落とし」は戦史に輝く奇策として名高く、平知盛・平清盛の甥・平敦盛の悲劇など刀剣文化・武士道に深く刻まれたエピソードを生んだ。
1180-05 〜 1185-03
治承4年(1180年)から寿永4年(1185年)にかけて、源氏と平氏が日本全国で展開した内乱。この5年間の戦争は日本刀の歴史において根本的な転換点となった。平安末期に完成した「太刀」の様式が実戦に投入され、名刀の多くが贈答・奉納・鹵獲を通じて流通した。義経の奇策・知盛の忠義・三種の神器の行方など、後代の文学・芸能に深く刻まれた戦役である。
1159年12月9日〜26日(平治元年12月4日〜21日)
平治元年(1159年)12月、保元の乱に続く第二の武力政変。藤原信頼・源義朝が後白河上皇を幽閉したが、平清盛が電撃帰京して鎮圧。義朝は敗死し、幼い頼朝は伊豆へ流された。清盛の覇権確立と源氏の没落を決定づけた内乱。
1156年7月29日(保元元年7月11日)
保元元年(1156年)7月、後白河天皇と崇徳上皇の対立に平氏・源氏が介入した内乱。わずか一日で決着したこの戦いは武士が中央政治に台頭する歴史的転換点となり、平清盛・源義朝らが活躍した。
1051年〜1062年(永承6年〜康平5年)
永承6年(1051年)から康平5年(1062年)にかけて、陸奥国(東北地方)で勃発した源頼義・義家父子と安倍氏(安倍頼時・貞任)の戦乱。朝廷の権威が及ばぬ東国の平定において源氏が武名を高め、後の武家政権の礎を築いた。清原氏の援軍が勝利の鍵となった。