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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
276件のイベント
1863-03-13
文久3年(1863年)、幕府の要請によって京都守護職配下の浪士組から再編された「新選組」は、幕末の京都を舞台に尊王攘夷志士を鎮圧した剣士集団である。局長・近藤勇、副長・土方歳三のもと、隊士たちは精鋭無比の剣術と峻厳な法度によって恐れられた。日本刀の実戦使用が最後に輝いた時代として、幕末剣術史において特別な位置を占める。
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1862年4月23日(文久2年3月23日)
文久2年(1862年)4月、京都・伏見の旅館「寺田屋」で薩摩藩が藩士同士の斬り合いを行った事件。尊王攘夷急進派の薩摩藩士を、薩摩藩主島津久光が自らの藩士を送って制圧・粛清した。坂本龍馬の寺田屋遭難(1866年)とは別事件。幕末の藩内政治と剣術の交差点として日本刀文化史に重要な位置を占める。
1839年05月14日
天保10年(1839年)5月、幕府が洋学者の渡辺崋山・高野長英らを捕らえて処罰した言論弾圧事件。天保8年のモリソン号事件に際し、幕府の異国船打払いの方針を批判する『慎機論』(崋山)や『戊戌夢物語』(長英)が背景にあり、目付の鳥居耀蔵が主導して洋学者グループ(尚歯会)を摘発したとされる。崋山は蟄居、長英は永牢となった。武家社会・洋学・幕政の対立を示す事件である。
1701年4月21日(元禄14年3月14日)/ 討ち入り: 1703年1月30日(元禄15年12月14日)
元禄14〜15年(1701〜1703年)、播磨国赤穂藩主・浅野内匠頭が江戸城内で吉良上野介に斬りつけ改易となり、翌年に大石内蔵助率いる四十七士が吉良邸に討ち入りを果たした事件。日本の「義」と武士道を体現した歴史的事件。
1657年03月02日
明暦3年1月18日〜20日(1657年3月2日〜4日)、江戸の大半を焼いた大火災。江戸城の天守・本丸・二の丸・三の丸が焼失し、以後天守は再建されなかった。将軍家や諸大名家に伝わる名刀の被災も語られ、焼け身・再刃・焼失名物といった刀剣史の言葉とも結びつく。
1656-00-00
明暦2年(1656年)、50歳の甲冑師・長曽根虎徹が江戸に移住し、甲冑製造から刀工へと転身。後に「江戸の名刀工」と称えられることになる歴史的転機。
1637年10月25日〜1638年4月12日(寛永14年10月25日〜寛永15年2月28日)
寛永14〜15年(1637〜1638年)、肥前国島原・天草地方のキリシタン農民が天草四郎時貞を大将として幕府に反乱。約37,000人が原城に籠城し、12万の幕府軍と激戦の末に鎮圧された。江戸時代最大かつ最後の大規模一揆であり、鎖国政策を決定づけた事件。
1615年5月(慶長20年4月〜5月)
慶長20年(1615年)5月、徳川家康が豊臣家を滅ぼした最後の決戦。真田幸村が家康本陣へ決死の突撃を敢行し、その壮絶な最期は「日本一の兵(つわもの)」と称えられた。
1614年10月〜12月(慶長19年9月〜12月)
慶長19年(1614年)10月〜12月、徳川家康が豊臣秀頼の居城・大坂城を攻囲した合戦。真田幸村が「真田丸」を築いて徳川軍を撃退し、砲撃戦・和議交渉が絡み合う複雑な攻防戦となった。翌年の夏の陣への直接の前哨戦。
1606-00-00
初代康継が徳川家康より「康継」の名と三葉葵紋の使用を許可され、江戸刀剣工芸の象徴的な地位を確立した歴史的瞬間。
1600年10月21日(慶長5年9月15日)
慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の決戦が美濃国関ヶ原で行われた。東軍・徳川家康と西軍・石田三成が激突し、わずか一日で日本の覇権が決した歴史的大合戦。
1600-09-02
慶長5年(1600年)7月、関ヶ原前夜に徳川家康が下野国小山で召集した軍議。福島正則ら東軍諸将の忠誠を取り付け、会津征伐から西軍討伐へと方針転換した天下の分岐点。
1597-01 〜 1598-12
慶長2年(1597年)、文禄の役から4年の休戦を経て豊臣秀吉が再び朝鮮へ大軍を送り込んだ。蔚山城の籠城戦(加藤清正)、島津義弘の露梁海峡の戦いにおける決死の退き口など、日本刀と鉄砲が混在する近世戦争の実態を刻んだ戦役である。秀吉の病死によって戦争目的を失い全軍撤退。朝鮮半島に甚大な人的・文化的損害を与えた。
1590年4月〜8月(天正18年3月〜7月)
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が大軍を率いて北条氏の本拠・小田原城を包囲した合戦。3ヶ月以上にわたる長期包囲の末、北条氏政・氏直父子が降伏し、氏政が切腹して、100年続いた後北条氏が滅亡。秀吉の天下統一が完成した歴史的事件。
1587年1月20日(天正14年12月12日)
天正14年(1586年)12月、豊臣秀吉の九州征伐の先鋒を務めた仙石秀久・長宗我部信親らが、豊後国戸次川(現・大分市)で島津軍と戦い大敗した。長宗我部元親の嫡男・信親が戦死し、四国一の猛将の死が元親と長宗我部家に深刻な打撃を与えた合戦。
1585年11月17日(天正13年10月8日)
天正13年(1585年)11月、奥州の雄・伊達政宗が、佐竹・蘆名・二階堂・白河連合軍と陸奥国の人取橋(現・福島県本宮市)で激突した。数倍の敵に包囲されながら奮戦した17歳の政宗は、辛くも敗退を避けた。東北戦国史の一大転換点となった合戦。
1585-07-25
天正13年(1585年)7月、羽柴秀吉が約10万の大軍を四国に送り込み、四国を統一した長宗我部元親を降伏させた。元親は土佐一国のみの安堵にとどまり、秀吉の天下統一が一歩進んだ。四国攻めは紀州攻め直後に行われた秀吉の西国平定の集大成の一つである。
1585-07-11
天正13年(1585年)7月11日、豊臣秀吉は関白に就任し、武家として初めて最高の朝廷官職に登り詰めた。翌年の九州平定、天正18年の小田原攻め・奥州仕置を経て天下統一を完成。天正16年(1588年)の刀狩令により武士以外の帯刀を禁じ、兵農分離政策を完成させることで日本刀の「武士の専有物」としての地位を法的に確定した。
1584年3月24日(天正12年3月24日)
天正12年(1584年)3月、九州の覇権をかけた龍造寺隆信と島津・有馬連合軍の決戦。肥前国沖田畷(現・長崎県島原市)で、「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信が奇策を用いた島津軍に討ち取られた。九州戦国史の転換点となった合戦。
1584年3月〜11月(天正12年)
天正12年(1584年)、本能寺の変後の後継者争いをめぐり、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が激突した合戦。長久手において家康軍が秀吉方の池田恒興・森長可らを討ち取る局地的大勝を収めたが、軍事的決着はつかず、政治交渉で秀吉が優位を確立した。
1583年4月21日(天正11年4月20日)
天正11年(1583年)4月、近江国賤ヶ岳(現・滋賀県長浜市)周辺で繰り広げられた羽柴秀吉と柴田勝家の覇権争い。本能寺の変後の「織田家後継者」をめぐる武将間の権力闘争であり、「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる七人の猛将の活躍で知られる。
1582年6月21日(天正10年6月2日)
天正10年(1582年)6月2日未明、天下統一目前の織田信長が京都・本能寺において家臣・明智光秀の謀反により討たれた。日本史上最大の謀叛として、後世に深く刻まれた事件。
1582年06月06日
天正10年(1582年)、本能寺の変の報を受けた羽柴秀吉が、備中高松城の包囲を解いて京へ引き返し、約10日で山崎の戦場へ達した行軍。移動の速さ、情報の遮断と伝達、兵站、弟・秀長との連携に注目して語られる。
1582-06-21
天正10年(1582年)6月、本能寺の変直後に徳川家康が堺から伊賀・甲賀を経て三河岡崎城へ脱出した逃避行。服部半蔵らに護衛された命がけの旅は、後の天下統一への布石となった徳川家の建国神話である。