
一乗谷城の戦い——朝倉氏の滅亡
天正元年(1573年)8月
越前国一乗谷(現・福井県福井市城戸ノ内町)
- 日時
- 天正元年(1573年)8月
- 場所
- 越前国一乗谷(現・福井県福井市城戸ノ内町)
- 結果
- 織田軍の圧勝。朝倉義景自刃・朝倉氏滅亡。一乗谷城下炎上。
勢力
織田軍
朝倉軍
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一乗谷城の戦いは、天正元年(1573年)8月に越前国で行われた、織田信長と朝倉義景の最終決戦である。百年余にわたって越前を支配した朝倉氏が滅亡したこの合戦は、戦国大名としての朝倉家の終焉であった。
朝倉氏と一乗谷
朝倉氏が越前(現・福井県)の一乗谷に居を定めて以来、その城下町は日本海側における有数の文化都市として発展した。朝倉孝景・義景ら歴代当主は武芸・文芸の双方を重視した。
信長包囲網の崩壊と朝倉氏の苦境
元亀元年(1570年)から続いた信長包囲網——浅井・朝倉両氏を軸とし、本願寺・武田・比叡山らが加わる広域連合——は、元亀4年(1573年)の武田信玄の死去と足利義昭の京都追放によって急速に瓦解した。武田という最大の後ろ盾を失い、足利将軍家の権威的後ろ盾も消えた朝倉義景は、同盟相手の浅井長政とともに窮地に追い込まれていた。
天正元年8月、信長は近江に侵攻して浅井長政の拠る小谷城を包囲。援軍として出陣した義景は小谷城の北西の田上山に陣を構え、大嶽砦などを築いて守ったが、8月12日夜に信長が暴風雨をついて大嶽砦を奇襲して落とすと、義景は越前へ撤退を開始した。
刀根坂の大敗と一乗谷炎上
義景の退却は、刀根坂(現・福井県敦賀市)において致命的な打撃を受けた。信長は自ら先頭に立って追撃し、8月13日の刀根坂の戦いで朝倉軍は壊滅的な敗北を喫した。将兵の多くが討ち取られ、義景はわずかな従者とともに辛くも脱出して一乗谷に戻ったが、もはや支えきれず、一族の朝倉景鏡の勧めで大野郡へと落ち延びた。
残された一乗谷には、8月18日に織田軍が攻め入った。百年の繁栄を誇った城下町は火の海と化し、領主の館から寺社まで、多くの建物が焼き払われた。現在、一乗谷朝倉氏遺跡(国の特別史跡・特別名勝)として発掘された遺構からは、当時の高度な手工業の痕跡が発見されており、その突然の終焉が際立って惜しまれる。
義景の最期
追い詰められた朝倉義景は、頼みとした一族の朝倉景鏡に居場所を密告され、8月20日に六坊賢松寺にて自刃した。享年41。嫡男の愛王丸ら義景の血族の多くも殺され、戦国大名としての朝倉氏は滅亡した。
一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡は1967年に本格的な発掘調査が始まり、現在も往時の城下町の全貌を解明すべく調査が続いている。