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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
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1581年(天正9年)6月〜10月
天正9年(1581年)、羽柴秀吉が鳥取城を包囲し、兵糧攻めによって城兵・城下民を極限の飢餓状態に追い込んで落城させた兵糧攻め(渇え殺し)。秀吉の天才的な作戦立案と、城将・吉川経家の悲劇的な死が織り成す戦国最大の苛烈な籠城戦のひとつ。城内では人肉食まで起きたとされる凄惨な籠城の末、吉川経家は自刃して城兵の助命を実現した。
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1581-1585
織田信長の武将・佐々成政が、1581-1585年の期間に越中国を統一。豊山城の改築と魚津城の包囲戦を通じて、火縄銃時代の攻城戦を象徴。
1581-09
天正9年(1581年)9月、織田信長は次男・信雄(のぶかつ)を総大将に任じ、4万を超える大軍で伊賀国に侵攻した。二年前の第一次侵攻の失敗(天正7年)の雪辱を果たすべく、信長自ら作戦を指揮した「第二次天正伊賀の乱」である。忍びの里として知られる伊賀は組織的な抵抗を試みたが、圧倒的兵力差の前に数日で壊滅した。この戦いは、武士の刀剣文化と忍者の暗器・短刀文化が正面から衝突した珍しい歴史事例である。
1579-06-01
天正7年(1579年)6月、明智光秀が数年に及ぶ丹波攻略を完成させ、難攻不落の八上城(現・兵庫県丹波篠山市)を落城させた。城主・波多野秀治・秀尚兄弟は信長の命により処刑され、丹波国全域が光秀の支配下に入った。光秀の丹波統治は後の本能寺の変にまつわる伝説とも深く結びついている。
1578年11月12日(天正6年11月11日)
天正6年(1578年)11月、日向国(現・宮崎県)で島津義久率いる島津軍が大友宗麟の大軍を撃破した合戦。決戦地の名から「高城川の戦い」とも呼ばれる。島津の「釣り野伏せ」の前に大友軍は壊滅し、敗走中に耳川で多数が溺死した。「九州三国志」の大きな転換点となり、大友氏の衰退と島津氏の九州制覇への道が開かれた。
1577-09-01
天正4年(1576年)秋〜天正5年(1577年)9月、上杉謙信が能登国の拠点・七尾城(現・石川県七尾市)を包囲・攻略した攻城戦。謙信は一年近い長期包囲の末、城内の疫病流行と内通者の裏切りによって七尾城を陥落させ、能登国をほぼ平定した。七尾城陥落の報は謙信が手取川の戦いで織田信長の軍勢を破る直前のことであり、謙信の北陸制覇の頂点を示す戦いである。
1575年5月21日(天正3年5月21日)
天正3年(1575年)5月21日、三河国長篠(現・愛知県新城市)において、織田信長・徳川家康の連合軍が武田勝頼の軍を大敗させた合戦。信長が組織的な鉄砲三段撃ちを用いたとされ、戦国合戦の戦術革命をもたらした「火縄銃の時代」の象徴的戦い。
1573-08-17
天正元年(1573年)8月、織田信長の猛追により朝倉義景は居城・一乗谷城を捨てて逃亡。百年の栄華を誇った朝倉氏はわずか数日で滅亡し、越前の刀剣文化も大きな打撃を受けた。
1573-01-01
元亀3年(1572年)12月〜元亀4年(1573年)2月、武田信玄が徳川家康の支城・野田城(現・愛知県新城市)を包囲・攻略した合戦。信玄は三方ヶ原の戦いで家康を大敗させた後、野田城を攻め落としたが、この攻城中に信玄は銃弾を受けたとも落城直後に病が悪化したとも伝えられ、その後甲斐への帰途に死去した。野田城の戦いは信玄の西上作戦の最終局面であり、信玄最後の合戦として歴史に刻まれる。
1572年12月22日(元亀3年12月22日)
元亀3年(1572年)12月、武田信玄率いる武田軍が遠江・三方ヶ原で徳川家康軍を大破した合戦。信玄の生涯最後の遠征であり、家康が生涯最大の敗北を喫した戦い。「しかみ像」に代表される家康の屈辱と、信玄の戦略的天才が語り継がれる。
1570-09-16
元亀元年(1570年)9月〜12月、浅井・朝倉連合軍と比叡山延暦寺が結託して信長を包囲した志賀の陣。信長は朝廷の仲介による屈辱的な和議を余儀なくされたが、翌年の比叡山焼き討ちへの決意を固めた転換点となった。
1570-08-20
元亀元年(1570年)8月、大友宗麟の大軍が龍造寺隆信の本拠・佐嘉城を包囲した今山合戦において、龍造寺家の重臣・鍋島信生(後の直茂)が夜襲を敢行し、大友軍総大将・大友親貞を討ち取った。この勝利により龍造寺氏は肥前制覇への道を開き、九州戦国史の転換点となった。
1569-01-05
永禄12年(1569年)1月、三好三人衆が京都本圀寺の足利義昭を襲撃した政変。明智光秀ら籠城衆の防戦と畿内諸将の急行救援により撃退され、織田信長による殿中御掟制定と二条新御所築造の契機となった。
1567-09-01
永禄10年(1567年)8月、織田信長が美濃国の斎藤龍興から稲葉山城(現・岐阜城)を奪取した攻城戦。木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の内応工作と精鋭による奇襲が功を奏し、信長は念願の美濃制覇を成し遂げた。信長はこの城を「岐阜城」と改め、天下布武の号令の地として天下統一の拠点に据えた。
1565年10月15日
永禄8年(1565年)、武田信玄の嫡男・義信が謀反の企てに連座して東光寺に幽閉され、傅役の飯富虎昌が自刃した事件。桶狭間後の今川家との関係の変化と、信玄の外交路線の転換が背景にあったとされ、義信は2年後に没した。
1564-02-06
永禄7年(1564年)2月、竹中重治(半兵衛)はわずか16人の手勢で難攻不落の稲葉山城を奪取した。暗君・斎藤龍興を諌めるための義憤から生まれた奇策は、半兵衛の天才的な軍略家としての名声を後世に伝える伝説となった。
1561年03月13日
永禄4年(1561年)3月、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が関東の諸将を率いて北条氏康の本拠・小田原城を包囲したが、氏康は籠城し、城は落ちなかった。景虎は帰途に鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉憲政から関東管領職と上杉の名跡を継承し、上杉政虎を称したとされる。武力による城攻めの成否よりも、権威の継承儀礼が後世に大きな意味を持った出来事である。
1560年6月12日(永禄3年5月19日)
永禄3年(1560年)5月19日、尾張の小大名・織田信長が、今川義元率いる大軍に奇襲をかけ、義元を討ち取った。兵力差を覆した歴史的奇跡の戦いは、信長の天下への第一歩となった。
1555年10月1日(天文24年9月30日)
天文24年(1555年)10月、安芸の毛利元就が瀬戸内海の聖地・厳島に陶晴賢の大軍を誘い込み、奇策と水軍を駆使してわずかな兵力で撃破した合戦。「三矢の訓え」で知られる元就が中国地方の覇者への道を確立した戦略的大勝利である。
1553〜1564年(天文22〜永禄7年)、第四次:1561年10月(永禄4年9月)
天文22年〜永禄7年(1553〜1564年)にかけて、信濃国川中島周辺で繰り広げられた武田信玄と上杉謙信の五度にわたる合戦。とくに永禄4年(1561年)の第四次合戦は両将が一騎打ちに及んだとも伝えられ、戦国最大の激戦として名高い。
1547年09月22日
天文16年(1547年)9月22日、尾張の織田信秀が美濃へ侵攻して稲葉山城下を焼いたが、斎藤道三の反撃を加納口で受けて大敗したとされる戦い。この後に織田・斎藤両家は和睦し、信秀の嫡男・信長と道三の娘・帰蝶(濃姫)の婚姻が成ったと伝えられる。合戦の年は天文13年(1544年)説や複数回の衝突説もあり、通説として天文16年を採る。
1541-1556
油商人から身を起こした斎藤道三が、1541-1556年に美濃国を統一。火縄銃導入と刀工統制により、戦国期の権力再編と兵器体系の革新を象徴。
1530
常陸国の剣術家・塚原卜伝が、鹿島地方の武術を体系化し、新當流を創立。刀剣文化の理論的基礎を確立した重要な事象。
1467年〜1477年(応仁元年〜文明9年)
応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)にかけて、室町幕府の将軍継嗣問題をきっかけに勃発した大乱。細川勝元の東軍と山名宗全の西軍が京都を戦場に11年にわたって激突し、戦国時代の幕を開けた。