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天正18年5月〜同年7月(1590年6月〜8月)
武蔵国埼玉郡忍(現・埼玉県行田市)
勢力
豊臣軍(攻城方)
成田氏(籠城方)
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天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めの最中、武蔵国の忍城(おしじょう、現・埼玉県行田市)において、石田三成が率いる豊臣軍と、成田氏の籠城勢との間に激しい攻防戦が繰り広げられた。この「忍城の戦い」は、三成が「石田堤」と呼ばれる大規模な堤防を築いて城を水攻めにするという大胆な作戦を採ったにもかかわらず、わずか約500の守備隊が数万の軍勢に最後まで屈しなかった籠城戦として、日本史に特筆される。
忍城は利根川・荒川水系の低湿地に位置し、周囲を沼・湖沼・水田に囲まれた天然の要害であった。この地形的特性が、「浮き城(うきしろ)」という異名を生んだ。水に囲まれた低地の城ゆえに、通常の力攻めは困難であり、三成はその弱点を逆手に取って水攻めを採用した。しかし利根川の氾濫原という地形は、水攻め側にとっても難しい地勢であった。
成田氏は武蔵国北部を拠点とした有力な国人領主であり、忍城は成田氏の本城として戦国時代を通じて機能してきた。城主・成田氏長(うじなが)は小田原城の北条氏政の下にあって関東有数の勢力を誇ったが、天正18年の秀吉の小田原攻めに際しては、氏長自身は小田原城に詰めていたため、忍城の守備は城代・成田泰季、その死後は子の成田長親が総大将となって担い、正木利英や甲斐姫もこれを支えた。
甲斐姫(かいひめ)は成田氏長の娘とされ、その武勇は後世に語り継がれてきた。弓・薙刀を使いこなす女武者として描かれることが多く、籠城戦において守備隊を鼓舞した指揮者的役割を果たしたとされる。ただし、史料の多くは後世に成立したもので、甲斐姫の具体的な活躍についての一次資料は限られている。それでも甲斐姫の存在は忍城の戦いの象徴として、江戸時代以来広く知られてきた。
天正18年5月(1590年6月)、石田三成・大谷吉継・長束正家らが率いる約2万3千の豊臣軍が忍城を包囲した。三成は直ちに水攻め作戦を立案し、城の周囲に全長約28kmにも及ぶ大規模な堤防(石田堤)を築く工事を開始した。この堤防は利根川・荒川の水を引き込んで城を水没させることを目的としたものであった。
工事は短期間で完成し、三成は城の周囲に水を引き入れた。しかし忍城は予想以上に高い地盤に築かれており、また城内の守備隊も水位上昇に対応した防備を固めていた。さらに水攻めの最中に堤防の一部が決壊するなど、作戦は思惑通りには進まなかった。
籠城した約500名の守備隊は、三成軍の数十倍もの兵力差を前に、弓・鉄砲・刀・槍を駆使して徹底抗戦した。三成軍が水攻めと並行して実施した力攻めも、守備隊の激しい反撃によって撃退された。籠城中の夜間の奇襲攻撃(搦め手からの斬り込み)では、忍城の武士たちが刀を手に敵陣に突入し、三成軍に損害を与えたとも伝えられている。
特に注目されるのは、正木利英が指揮した度重なる出撃作戦である。三成軍の包囲網が完全ではない時期に、利英は少数の精鋭で城外に打って出て敵の後方を乱し、補給路を脅かした。この積極的な防御行動が守備隊の士気を高め、籠城を長期にわたって維持させた。
武蔵国は古来より刀剣の産地として知られており、江戸時代には江戸新刀の中心地となる地域であった。戦国時代の武蔵国においては、備前系の太刀・刀が広く流通しており、忍城の武士たちも質の高い刀剣を帯刀していたと考えられる。
忍城の籠城戦において刀剣が重要な役割を果たしたのは、水攻めという特殊な状況の下での白兵戦においてである。水で囲まれた城内において、鉄砲の湿気による不調が問題となる場面では、刀・槍が最後の実戦兵器として機能した。守備隊が行った夜間の奇襲では、刀を主力とした近接戦闘が展開された。
また、城内で命を落とした武士たちの刀剣は、城が開城後に返還されたものと、水中に没したものとに分かれたと考えられている。忍城近辺からは今日でも戦国時代の刀剣片・刀装具が出土することがあり、この地が激しい戦いの場であったことを物語っている。
忍城の落城なき開城後、甲斐姫は秀吉の要請(一説に強制)により豊臣の後宮に入り、秀吉の側室となった。この経緯については「家康が仲介した」という説が広く知られており、家康が成田氏に対して配慮を示した政治的行動として解釈されることもある。秀吉の死後、甲斐姫の消息は歴史の表舞台から消えてゆくが、忍城での武勇の伝説は江戸時代を通じて関東の民間に語り伝えられた。
現代では、忍城は「のぼうの城」(2012年公開の映画)の舞台として広く知られており、成田長親(のぼう様)と甲斐姫の活躍が再び注目を集めた。この映画の人気によって、忍城と行田市への観光客が増加し、忍城の戦いが現代に再発見される契機となった。
忍城の戦いの歴史的意義は、豊臣秀吉の天下統一の最終段階における関東制圧の一側面として理解される。小田原城の開城(天正18年7月)によって後北条氏が滅亡し、秀吉の全国統一が完成した。忍城は小田原開城後に初めて降伏したという意味で、「最後まで落ちなかった城」として特別な位置を占める。
また、石田三成の水攻め失敗は、三成の軍事的能力への批判的評価の根拠のひとつとして語られることがある。水攻めという大胆な発想と大規模な土木工事を指揮した行政能力は評価されながらも、最終的に城を落とせなかった事実は、三成の武将としての限界を示すものとして歴史家の間で論じられてきた。