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天正18年6月23日(1590年7月24日)
武蔵国八王子城(現・東京都八王子市元八王子町・下恩方町)
勢力
豊臣方別働隊
北条方(八王子城籠城衆)
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天正18年(1590年)、天下統一を目指す豊臣秀吉は関東の後北条氏に対する大規模な征討軍を発し、世に言う小田原征伐が始まった。北条氏照は北条氏政・氏直父子を支える有力な一門衆として、武蔵国多摩郡に築いた八王子城を拠点としていたが、開戦にあたり氏照自身は本城である小田原城の防衛に加わるため城を離れていた。氏照不在の八王子城には、城代の横地監物吉信をはじめ、狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀ら氏照配下の重臣たちが残されたが、その兵力は限られており、周辺から動員・避難してきた女性や子どもを含む領民を合わせても約3000人程度にとどまっていたとされる。小田原本城への戦力集中を優先した結果、支城である八王子城の防備は必然的に手薄なものとなっていた。八王子城は氏照が築いた山城で、麓の御主殿や城下町を含む総構えの規模は北条氏の支城の中でも屈指のものであったが、その堅固さも十分な兵力なくしては生かしきれない状況にあった。
秀吉は小田原本城を包囲する一方、北関東の北条方支城群を各個撃破するための別働隊を編成した。八王子城攻略にはこの別働隊のうち、上杉景勝・前田利家・真田昌幸らが率いる約1万5000の軍勢が差し向けられた。天正18年6月23日(西暦1590年7月24日)未明、豊臣方の大軍は濃霧に紛れて進軍し、城の東正面にあたる大手口(元八王子町)と、北側の搦め手(下恩方町)の二方向から同時に城へ攻めかかった。数において20倍に迫る大軍を前に、籠城側は絶望的な状況で防戦を強いられることとなった。
寡兵の北条方籠城衆は峻険な山城の地形を頼みに激しく抵抗し、双方に多数の死傷者を出す激戦となったが、圧倒的な兵力差の前に防戦は長くは続かなかった。城代の横地監物は落城の直前に城を脱して檜原村方面へ逃れたのち自害したと伝わり、家範をはじめとする氏照の重臣たちも各所で討死した。攻城側もまた城内の複雑な地形と籠城衆の抵抗により相応の損害を被ったとされ、決して一方的な戦闘ではなかったことがうかがえる。中山家範は奮戦の末に討死したが、その武勇は攻め手側にも高く評価され、後にその子・照守と信吉は徳川家康に召し抱えられて家名を存続させたと伝わる。
激戦の末、八王子城はわずか一日で陥落した。落城に際しては、逃げ場を失った城内の婦女子の多くが自刃し、あるいは城内の御主殿の滝に身を投げて命を絶ったと伝えられており、後世まで語り継がれる凄惨な結末となった。この滝は今日でも「御主殿の滝」として城跡に残り、犠牲者を悼む場として知られている。落城後、城内は攻め手によって徹底的に破壊されたと伝わり、これは小田原本城に対する見せしめの意味合いもあったとする見方がある。八王子城の戦いは、小田原征伐における数ある支城攻防の中でも屈指の激戦として記憶されている。
八王子城陥落の急報は、小田原本城に籠っていた北条方の士気に大きな打撃を与えた。支城の一つがわずか一日で落とされたという事実は、北条方に籠城戦の限界を痛感させ、和議・開城を求める声を強める一因となったと考えられている。この報せからほどなくして小田原城は無血開城に至り、当主・氏直は高野山への追放処分となる一方、開戦の責を負った氏照は兄・氏政とともに天正18年7月11日に切腹を命じられた。これをもって戦国大名としての後北条氏は事実上滅亡し、秀吉による関東平定と天下統一が完成する。八王子城の攻略戦は、単独の局地戦にとどまらず、戦国時代という時代そのものの終焉を告げる象徴的な一戦としての性格も帯びていた。
現在、八王子城跡は国の史跡に指定され、御主殿跡の石垣や曳橋、山頂の要害部などが整備・公開されている。落城の際に犠牲となった人々を慰霊する祭事も現在まで受け継がれており、戦国末期の関東における最大級の攻城戦の一つとして、地域の歴史の中に深く刻まれている。北条氏照の居城として築かれたこの山城は、豊臣秀吉による天下統一事業の最終局面を象徴する舞台の一つとして、今日も多くの史跡愛好者が訪れる場所となっている。城下に残る地名や伝承の多くは、この一日の激戦の記憶を今に伝えるものであり、関東における戦国期城郭の実戦利用を示す貴重な事例としても評価されている。
小田原征伐の終結後、関東一円は徳川家康に与えられ、家康は江戸を本拠に定めて関東支配を開始した。八王子の地もまた徳川氏の支配下に組み込まれ、旧武田家臣を中心とする「八王子千人同心」が甲州口の警固を担う形で配置されるなど、江戸時代を通じて江戸防衛上の要地として機能し続けることになる。落城した山城そのものは廃城となり、政治・軍事の中心は麓の平地へと移っていったが、城下に形成された町は後の八王子宿・八王子城下町の基盤となり、近世以降の甲州街道の宿場町として発展していった。
八王子城の戦いは、戦国時代最末期における関東の攻防戦として、しばしば同じ小田原征伐で落とされた忍城・鉢形城など他の北条方支城の攻防と比較される。忍城が石田三成による水攻めという特異な戦術で知られるのに対し、八王子城は険しい山城の地形を生かした籠城と、それを圧倒する豊臣方大軍による速攻という対比をなす事例として、戦国末期の城郭戦を考えるうえでしばしば取り上げられる。今日、御主殿跡や城山の遺構は発掘調査によって当時の姿が明らかにされつつあり、戦国期城郭史・関東地方史の双方にとって重要な研究対象となっている。
戦後の発掘調査により、御主殿跡からは焼け落ちた建物の礎石や、当時使用されたと見られる陶磁器・金属製品などが多数出土しており、落城の凄まじさを物語る物証として注目されている。八王子城跡は現在、多くの登山者や歴史愛好家が訪れるハイキングコースとしても親しまれており、往時の攻防を伝える案内板や解説施設の整備も進められている。
この戦いはまた、山城という防御施設の限界を示す事例としても後世しばしば取り上げられる。険しい地形を生かした縄張りを誇った八王子城であっても、圧倒的な兵力差と城主不在という条件が重なれば、わずか一日で陥落しうることを示した点は、戦国末期における城郭戦術の転換点を考えるうえでも重要な事例とされる。以後の江戸時代を通じて、関東では大規模な山城が新たに築かれることはほとんどなくなり、平地に築かれた近世城郭へと築城の主流が移っていく背景の一つとしても位置づけられている。
現在も八王子市では、落城の日にちなんだ慰霊行事が地域住民によって続けられており、御主殿の滝周辺は静かな祈りの場として大切にされている。八王子城跡はユネスコ世界遺産候補にもたびたび挙げられるなど、戦国期城郭遺構としての学術的価値も高く評価されている。
八王子城の戦いは、豊臣秀吉による全国統一事業の最終盤を象徴する一戦として、後世の軍記物や地方史誌にも繰り返し取り上げられてきた。城主不在という不利な条件のもとで最後まで抵抗を続けた城代・重臣たちの奮戦は、北条方の武士としての矜持を示すものとして地域の伝承の中で語り継がれ、今日でも八王子の郷土史教育において重要な題材の一つとなっている。