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天正14年(1586年)7月14日〜27日
筑前国 岩屋城(現・福岡県太宰府市)
勢力
大友軍(岩屋城守備)
島津軍
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天正14年(1586年)7月、筑前国の岩屋城(現・福岡県太宰府市)で行われた岩屋城の戦いは、九州統一を目前にした島津氏と、それを阻んだ大友方の武将・高橋紹運との攻防であり、戦国屈指の玉砕戦として名高い。
天正年間、薩摩の島津氏は日向の耳川の戦い(天正6年)で大友宗麟を破って以来、破竹の勢いで九州を席巻し、豊後の大友氏を追い詰めていた。北九州でわずかに大友方として踏みとどまっていたのが、宝満・岩屋の両城を預かる高橋紹運と、その嫡子で立花城を守る立花宗茂であった。天正14年、島津忠長・伊集院忠棟らの率いる島津軍は5万とも称される大軍で筑前へ進攻し、大友方の拠点を次々と攻略していった。その進路上にあったのが、高橋紹運の守る岩屋城であった。
高橋紹運は、あえて防禦に不利な岩屋城に籠もることを選んだ。宝満城に退いて守りを固めるよう勧める声もあったが、紹運はこれを退けた。岩屋城が盾となって島津軍を引きつけることで、素通りされて嫡子・立花宗茂の立花城や、妻子・非戦闘員が避難した宝満城が攻められるのを防ぐという、捨て身の決断であったと伝えられる。集まった城兵はわずか763名であった。
7月12日、島津方は使者を送って降伏を勧告したが、紹運はこれを毅然と拒絶した。7月14日から総攻撃が始まり、5万の大軍を相手に、紹運と城兵は半月近くにわたって凄絶な防戦を繰り広げた。刀槍を交える白兵戦で島津方にも多大な損害を与えつつ、城兵は一人また一人と倒れていった。そして7月27日、攻撃開始から14日目、紹運以下城兵全員が討死し、岩屋城はついに落城した。
落城後、島津方の武将・島津忠長らは紹運の首実検を行うと、その武勇を悼んで座を降り、地に座して「まことに稀有の名将を討ち取った。もし味方であれば、これほどの友はなかったであろう」と涙したと伝えられる。この時代の武将にとって佩刀は武勇と誇りの象徴であり、名将の壮絶な最期は敵味方を問わず武人の鑑として語り継がれた。
紹運の徹底抗戦によって、島津軍は少なからぬ損害と貴重な時間を強いられた。この間に、豊臣秀吉の派遣した九州征伐の先発軍が動き出し、やがて秀吉自らの大軍が九州へ迫った。島津氏は撤退を余儀なくされ、九州統一の夢は潰えた。岩屋城で紹運が稼いだ時間は、九州の勢力図を決定づける結果をもたらしたのである。
紹運の子・立花宗茂は、父の遺志を継いで大友方として奮戦し、のちに豊臣・徳川の世を生き抜いて大名として名を残す稀代の名将となった。父子二代にわたる忠義と武勇は、九州の戦国史を彩る物語として、また武士の矜持を体現する逸話として、今日まで語り継がれている。