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天正13年(1585年)3月〜4月
紀伊国 太田城(現・和歌山市)
勢力
豊臣軍
太田党(籠城側)
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天正13年(1585年)、紀伊国の太田城(現・和歌山市)で行われた太田城の水攻めは、豊臣秀吉の紀州征伐における最後の大きな攻城戦であり、備中高松城・忍城の攻めと並んで「日本三大水攻め」の一つに数えられる。
紀伊国は、鉄砲で名高い雑賀衆や、僧兵集団の根来衆といった強大な自治的武装勢力が割拠する地であった。彼らは寺社の権威や鉄砲の技術を背景に独自の勢力を保ち、中央権力にたびたび抗してきた。天正13年3月、天下統一を進める秀吉は、弟の秀長を副将として約10万の大軍を動員し、紀州へ進攻した。秀長らの軍勢は敵対する諸城を次々と落とし、根来衆の本拠である根来寺を焼き払い、雑賀衆の拠点をも制圧していった。
紀州勢の抵抗の最後の拠点となったのが、太田党の拠る太田城であった。太田城は周囲を低湿地に囲まれた堅城で、力攻めではなかなか落ちなかった。籠城したのは非戦闘員を含めて約3千から5千といわれる。秀吉方は6万から10万ともいわれる大軍で城を包囲したが、堅い守りの前に攻めあぐねた。
備中高松城の水攻め(天正10年)で成功を収めていた秀吉は、太田城でも水攻めを選択した。周囲を流れる紀の川の水を引き込むため、城を取り囲む長大な堤が築かれた。その全長は約7kmに及び、堤の規模は備中高松城のものを上回り、高さや幅も数メートル大きかったと伝えられる。しかも、延べ46万人ともいわれる人足を動員し、この長大な堤をわずか5〜6日という驚異的な短期間で完成させたという。
発掘調査によっても堤の遺構が確認されており、東西の基底幅約20メートル、上端幅約16メートル、高さ約2.4メートルの盛土が残存していたことが報告されている。太田城水攻め堤跡は史跡として保存され、当時の土木事業の規模を今に伝えている。
紀の川の水を引き込まれて湖と化した太田城は、それでも頑強な抵抗を続けた。しかし豊臣方が水軍を投入して舟から鉄砲による攻撃を加えると、兵糧も尽きた城将・太田左近らはついに抵抗を断念し、約1ヶ月の籠城の末に降伏を申し出た。秀吉は多くの籠城者の助命を認める一方で、太田左近をはじめとする首謀者53名の自害を条件として開城させた。刎ねられた53人の首は大坂の天王寺・阿倍野で晒され、婦女子にも累が及んだと伝えられ、水攻めの苛烈さと戦後処理の峻厳さを物語る。
この戦いによって紀伊国は平定され、雑賀・根来といった中世以来の自治的武装勢力は解体された。鉄砲を操り独立を保ってきた在地勢力が中央権力の前に屈したことは、時代の転換を象徴していた。刀狩や兵農分離を推し進めていく秀吉政権にとって、太田城の攻略はその政策を体現する出来事であった。武力によって割拠していた者たちが統一政権に組み込まれていく——太田城の水攻めは、刀槍による戦国の世が終焉へと向かう時代の潮目を映し出している。