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1585-07-11
京都・宮中(関白宣下)/後に聚楽第
勢力
豊臣政権
朝廷
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天正13年(1585年)7月11日、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は関白(かんぱく)に就任した。関白とは摂政と並ぶ朝廷の最高職であり、成人した天皇を補佐して万機を取り仕切る地位である。鎌倉時代以降、この職は藤原氏の嫡流(摂関家)が独占してきた。尾張国の農民の子に生まれた秀吉がこの座を手にしたことは、中世の貴族制度を根底から揺るがす事件であった。
秀吉が関白の座を得た背景には巧みな朝廷工作があった。征夷大将軍の地位には源氏の血筋が必要とされていたため(足利幕府の先例)、武家の棟梁として幕府を開く道は秀吉には閉ざされていた。そこで秀吉は公家の名門・近衛前久(このえさきひさ)の猶子(名目上の養子)となることで、摂関家の一員に名を連ねた。
天正13年(1585年)7月11日、二条昭実の後任として正式に関白宣下を受けた。翌天正14年(1586年)には太政大臣にも就任し、朝廷から「豊臣(とよとみ)」の姓を賜った。農民出身の秀吉が律令国家の最高官職を独占したことは、中世的な権威秩序の崩壊を象徴していた。
関白就任時点の天正13年、秀吉はすでに畿内・東海・北陸・中国地方を制圧していたが、四国の長宗我部氏、九州の島津氏、関東の後北条氏、奥州の諸大名はまだ独立勢力として残っていた。
天正13年(1585年)7月、秀吉は100,000余の大軍を四国へ派遣し、長宗我部元親を降伏させた(四国征伐)。天正14年〜15年(1586〜1587年)には九州征伐を敢行し、薩摩の島津義久を降伏させた。天正18年(1590年)の小田原攻めでは北条氏政・氏直を滅ぼし、同年の奥州仕置によって伊達政宗ら奥州諸大名を服属させた。これをもって全国統一が完成した。
天下統一の過程で秀吉が実施した政策の中で、日本刀の歴史に最も深く関わるのが「刀狩令(かたながりれい)」である。天正16年(1588年)7月、秀吉は全国の農民・百姓・寺社から刀・脇差・弓・槍・鉄砲等の武器を没収することを命じた。
刀狩令の名目上の理由は「集めた武器で大仏を建立するための釘や鎹に使う」というものであり、方広寺大仏(京都)の建立事業と結びつけることで農民の反発を和らげようとした。しかし実質的な目的は農民による一揆の抑止と兵農分離の徹底にあった。
刀狩令以前、農民も刀を携帯することは一般的であり、守護大名や国人衆が農民を半農半兵の存在として戦力に組み込むことも珍しくなかった。刀狩令によって「刀を帯びる者=武士」という身分的境界が法的に画定され、武士と農民の身分が明確に分離された(兵農分離)。これは後の江戸幕府の身分制度(士農工商)の原型となった。
刀狩令は日本刀の社会的意味を根本から変えた。農民や寺社から没収された刀剣の多くは品質的に粗末なものであったとも言われる。一方で武士が所持する刀は「武家の魂」として特権的な地位を与えられ、その価値と意味は高まった。
秀吉自身も刀剣の蒐集に熱心であったことが知られる。秀吉が所持したとされる「一期一振(いちごひとふり)」は粟田口吉光作の太刀で、現在は御物(皇室所蔵)となっている。また「へし切長谷部(へしきりはせべ)」は織田信長が黒田孝高(官兵衛)に下賜し、以後黒田家に伝来した刀で、現在は福岡市博物館の所蔵品として広く知られる。秀吉政権下で天下の覇者が愛でた名刀たちはその後の大名家の家宝として受け継がれ、日本刀の鑑賞文化を大きく発展させた。
秀吉が確立した政治体制はその死後(慶長3年・1598年)に豊臣家の内紛と徳川家康の台頭を招き、関ヶ原の戦い(1600年)・大坂の陣(1615年)を経て豊臣家は滅亡した。しかし秀吉が整えた兵農分離・刀狩・身分制度の骨格は江戸幕府に引き継がれ、武士のみが刀を帯びるという制度が265年間にわたって維持された。その意味で秀吉の関白就任と天下統一は、日本刀の「武士の専有物」としての地位を決定づけた歴史的分岐点であったと言える。