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1614年10月〜12月(慶長19年9月〜12月)
摂津国・大坂(現・大阪府大阪市)
勢力
徳川軍
豊臣軍
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慶長19年(1614年)秋、徳川家康は「方広寺鐘銘事件」を口実として豊臣秀頼討伐の兵を挙げた。東西から約20万の大軍が大坂城を包囲したこの合戦は「大坂冬の陣」と呼ばれ、日本史上最大規模の城攻めのひとつとして記録されている。
慶長19年(1614年)、豊臣家が京都・方広寺の大仏殿再建を記念して鋳造した大鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」の文字が刻まれていた。徳川方はこれを「家康の名を分断し(家+康)、豊臣の君臣が楽しむ」という呪詛として問題視した。これは言いがかりに近い解釈だが、家康にとって豊臣家を滅ぼすための政治的口実として十分であった。
同年10月、諸大名に動員をかけた家康の軍勢は約20万。これに対し、秀頼のもとには真田幸村・後藤又兵衛・長宗我部盛親・明石全登ら、関ヶ原で敗れた大名や浪人衆が結集し、約9万の大軍を組織した。
大坂冬の陣で最も有名なエピソードが、真田幸村(信繁)による出丸「真田丸」の構築と防衛戦である。
大坂城の南側(最も脆弱な方向)に、幸村は木柵と土塁で構築した半月状の出城「真田丸」を設営した。12月4日(旧暦)、前田利常・井伊直孝らが率いる徳川軍の先鋒がこの真田丸に攻め寄せたが、幸村は鉄砲・弓矢を効果的に活用して撃退した。この戦いで幸村は徳川軍に甚大な損害を与え、一躍その名を天下に轟かせた。
真田丸の戦いは、戦国末期における刀・槍・鉄砲の混在した戦闘様式をよく示している。近接戦では刀・槍が、遠距離では鉄砲・弓矢が使われ、真田幸村の指揮のもとで巧みに組み合わされた。この時代の刀剣は、実戦の武器としてなお現役であると同時に、武将の身分・誇りを示す象徴的な意味を持っていた。
大坂城の強固な防衛に手を焼いた家康は、イギリスから輸入したカルバリン砲(長距離砲)を天守閣に向けて砲撃するという衝撃的な手段に出た。天守閣の近くに弾が落ち、秀頼の母・淀殿の侍女が死亡したという。この砲撃が豊臣方の心理に大きな打撃を与えた。
12月中旬、双方は和議の交渉に入り、12月19日(旧暦)に講和が成立した。豊臣方は外堀・内堀の埋め立てを条件として受け入れた。しかし家康は後にこの約定を拡大解釈し、秀頼の城の堀をほぼ全て埋め立てさせた。これは翌年の夏の陣(慶長20年)において、丸裸にされた大坂城への総攻撃を容易にする重大な帰結をもたらした。
大坂冬の陣における豊臣方の武将たちは、いずれも関ヶ原で敗れて浪人になった者たちが多く、彼らの持つ刀剣は各地のさまざまな出自を持っていた。
後藤又兵衛(基次)は、黒田家を出奔した後、豊臣秀頼のもとに身を寄せた猛将で知られる。「大太刀を振るう剛の者」として描かれる又兵衛の刀剣については詳細な史料は乏しいが、豊前刀工(後藤一派等)の刀を使用した可能性が指摘される。
長宗我部盛親は土佐(現・高知県)の旧大名家の出身で、関ヶ原後に改易された後、浪人として大坂入りした。土佐には独自の刀剣文化があり、盛親も土佐ゆかりの太刀・刀を帯びていたと考えられる。
大坂冬の陣は、徳川家康が豊臣家を最終的に打倒するプロセスの第一段階であった。表面上は和議による終結だったが、堀を埋めるという条件は豊臣家にとって致命的な軍事的損失を意味した。
翌年の大坂夏の陣では、大坂城の防衛力が大幅に低下したため、徳川軍はより容易に城に迫ることができた。豊臣秀頼・淀殿は城中で自刃し、豊臣家は滅亡した。
刀剣史の観点から見れば、大坂冬の陣は「戦国の刀が最後に輝いた舞台」の前哨戦であった。真田幸村・後藤又兵衛ら豊臣の勇将たちが帯びた刀は、翌年の夏の陣とともに「戦場における刀の時代」の幕引きを飾る刀剣となった。江戸の平和が訪れた後、これらの刀は「伝説の武将の遺品」として収集・保存され、刀剣文化における名品として語り継がれていくことになる。