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1577-09-01
能登国能登郡七尾(現・石川県七尾市古城山)
勢力
上杉軍
七尾城守備隊(畠山方)
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天正4年(1576年)から天正5年(1577年)にかけて行われた七尾城攻略戦は、越後の「軍神」上杉謙信が能登国(現・石川県能登半島部)の支配を確立するために行った、一年近くに及ぶ長期の攻城戦である。七尾城は能登国の守護大名・畠山氏の本城であり、七尾湾を見下ろす古城山(標高300m)の山頂に築かれた山城で、その規模と堅固さにおいて能登随一の城郭であった。
謙信がこの城を攻略したことで、北陸の覇権争いは新たな段階に入り、謙信は能登・越中・加賀にわたる広大な北陸地域の支配を手中に収めた。七尾城陥落の直後、謙信は手取川の戦いで織田信長の大軍を撃退するという歴史的な勝利を収め、謙信の軍事的絶頂期を印象づけた。
能登国の守護大名・畠山氏は、室町幕府三管領家の一つである畠山氏の分家筋にあたり、能登国を代々支配してきた名家であった。しかし戦国時代に入ると能登畠山氏は内紛が絶えず、家中の実力者(遊佐続光ら重臣)による専横が続き、当主の権力は著しく弱体化していた。
上杉謙信が能登に積極的に介入するようになったのは、天正2年(1574年)頃からである。謙信は越中国(現・富山県)の支配を確立した後、さらに西の能登・加賀・越前へと勢力を拡大しようとしていた。能登畠山氏の家中からは謙信に助けを求める声も上がっており、謙信はこれを名分に能登への介入を深めた。
天正4年(1576年)春、謙信は越中から能登に入り、七尾城の包囲を開始した。しかし七尾城の地の利は抜群であり、すぐに落城させることは難しかった。謙信は一旦囲みを解いて越中に戻り、同年秋から改めて大軍を率いて七尾城の長期包囲に臨んだ。
天正4年(1576年)秋から始まった本格的な包囲は、約1年間続いた。七尾城は天然の要害に守られ、城内には食料・水・武具も十分に備蓄されていたため、正攻法による攻城は困難を極めた。謙信軍は城への補給路を遮断し、兵糧攻め(包囲による兵糧の枯渇)を主戦術とした。
包囲が長引く中、城内ではある悲劇が進行していた。天正5年(1577年)夏、七尾城内で疫病(一説に赤痢または天然痘)が猛威を振るい、守備の主力となっていた将士が次々と倒れていった。城主・畠山春王丸をはじめ、多くの重臣・兵士が疫病によって命を落とした。守備力は急速に低下し、城内は絶望的な状況に陥った。
こうした状況の中、城内から謙信に内通する者が現れた。畠山家の重臣・遊佐続光(ゆさつぐみつ)が謙信と密かに通じ、天正5年9月、七尾城の搦手(裏門)を開けて上杉軍を城内に引き入れた。城は内側から崩れる形で陥落し、畠山春王丸は降伏または自害したとされる(詳細については諸説あり)。
謙信が七尾城陥落の知らせを受けた時、その感慨を詠んだとされる漢詩が有名である。「霜満軍営秋気清、数行過雁月三更(霜は軍営に満ち秋気清し、数行の雁は月の三更に過ぐ)」に始まるこの詩は、謙信が七尾城を見下ろす陣所で一年近い包囲戦の終わりに際して作ったとされ、武人としての謙信の教養と感受性を示すものとして後世に伝えられている。
七尾城陥落から間もない天正5年(1577年)9月23日(旧暦)、謙信は手取川(現・石川県手取川)において織田軍と激突した。この「手取川の戦い」において謙信率いる上杉軍は、柴田勝家・滝川一益・羽柴秀吉らが率いる織田の大軍(約40,000〜50,000と伝わる)に対して大勝を収めたとされる。
織田軍は七尾城救援のために急行したが、七尾城はすでに陥落しており、撤退途中の织田軍が手取川での渡河時に上杉軍の追撃を受け、多大な損害を被ったとされる。この戦いは、あの織田・徳川同盟の軍事力に対して謙信が明確な優勢を示した数少ない事例のひとつとして、後世の軍事史研究者から重要視されている(ただし戦いの規模・経緯については史料により差異があり、研究者間でも議論が続いている)。
謙信はこの後、越後に引き上げながらも北陸経営を継続した。しかし天正6年(1578年)3月、謙信は春日山城(現・新潟県上越市)において突如として倒れ、脳卒中(脳溢血ともいわれる)によって死去した。享年49歳。七尾城の戦いと手取川の戦いは、謙信の生涯における最後の輝かしい軍事的勝利となった。
七尾城の戦いと刀剣の関係において、まず注目されるのは能登国の刀剣文化である。能登半島は古来より刀剣の産地として知られ、特に能登の刀工たちは「能登物(のともの)」として独自の作風を持っていた。能登畠山氏の時代には、七尾城下に多くの職人が集まり、刀剣をはじめとする武具の製作が盛んに行われた。謙信による七尾城陥落は、こうした能登の工芸・文化的遺産が上杉の支配下に移ることを意味した。
上杉謙信自身は、刀剣の愛好者・収集家として戦国武将の中でも特に知られる。謙信が所持した名刀として「謙信景光(けんしんかげみつ)」(備前長船景光作・鎌倉末期の名刀)などが知られ、謙信が特に珍重したとされる。謙信の死後、これらの名刀は上杉景勝に引き継がれ、上杉家の重宝として代々伝えられた。
七尾城の陥落によって謙信が手に入れた戦利品の中には、畠山家が代々収集した刀剣・武具・宝物が含まれていたと考えられる。能登畠山氏は室町幕府三管領家の系譜を引く名家であり、その家宝の中には京都から伝わった名刀や、能登の刀工が作った優品も多数含まれていたはずである。謙信はこれらの戦利品を越後に持ち帰り、上杉家の宝庫を充実させた。
また謙信が七尾城陥落の感慨を詠んだ漢詩には、武人であると同時に高い文化的素養を持つ謙信の人物像が示されている。刀剣もまた単なる武器にとどまらず、武人の精神的象徴・芸術的嗜好の対象として謙信にとって重要な意味を持つものであった。謙信の刀剣観は「毘」(毘沙門天)の精神と結びつき、義のための戦いを体現する武器としての刀への深い敬意として表れている。
七尾城の戦いは、上杉謙信の北陸経営における最大の成果の一つである。謙信はこの勝利によって能登国をほぼ平定し、越中・加賀と合わせて北陸三国にわたる広大な領域を事実上の支配下に置いた。謙信の勢力圏は、東の関東管領領域から北陸三国に及ぶ広大なものとなり、織田信長にとっても無視できない脅威となった。
もし謙信が天正6年(1578年)に急死せずに生き続けていたならば、北陸から畿内への侵攻という謙信の最終目標は実現していたかもしれない。七尾城の戦いは、その目標へ向けた最後の大きな前進であった。謙信の死後、北陸は再び混乱し、最終的には柴田勝家・豊臣秀吉らの戦いを経て織田・豊臣政権の支配下に入ることになる。
現在の石川県七尾市には七尾城跡(古城山)が史跡として整備されており、能登湾を一望できる山頂からは往時の要衝としての地位が実感できる。謙信が詠んだとされる漢詩の碑文も現地に建てられており、七尾城の戦いの史跡として多くの訪問者を迎えている。能登半島の歴史と文化、そして戦国時代の北陸における争乱を今に伝える貴重な遺構として、七尾城跡は広く知られている。