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1590年4月〜8月(天正18年3月〜7月)
相模国小田原(現・神奈川県小田原市)
勢力
豊臣軍
北条軍
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天正18年(1590年)、豊臣秀吉は20万を超える空前の大軍を動員し、関東の覇者・後北条氏の本拠・小田原城(現・神奈川県小田原市)を包囲した。この「小田原の役」は、三ヶ月以上に及ぶ長期包囲の末に北条氏が降伏することで幕を閉じ、秀吉の天下統一を完成させた歴史的事件として知られる。
後北条氏(小田原北条氏)は、初代・伊勢宗瑞(いせそうずい、通称・北条早雲)が明応2年(1493年)に伊豆を奪取したことに始まる。以後、二代氏綱・三代氏康・四代氏政・五代氏直と約100年にわたって相模・武蔵・伊豆・上総・下総など関東一円に強大な支配体制を築き上げた。
天正10年(1582年)の本能寺の変後、天下の形勢が変わりつつある中で、北条氏直(氏政の子)は一時徳川家康と同盟を結んだ(「天正壬午の乱」で家康と協力)。しかし秀吉の台頭とともに北条家の立場は難しくなっていった。
天正17年(1589年)、北条氏は秀吉に服属している名胡桃城(なぐるみじょう)を攻撃するという事件を起こした(「名胡桃城事件」)。これを口実に秀吉は小田原征伐を決定し、翌天正18年(1590年)に大軍を東国へと向けた。
小田原城は戦国最強の城のひとつとして知られていた。総石垣造りの堅固な城郭であることに加え、城下町全体を外堀と「総構え(そうがまえ)」と呼ばれる大規模な防御施設で囲んだ「小田原の総構え」は、当時の日本最大級の城郭防御システムであった。その周囲は約9キロメートルにも及んだとされる。
秀吉はこの難攻不落の城を力攻めするのではなく、包囲持久戦を選択した。20万超の大軍で小田原を完全に包囲し、北条方が援軍を呼ぶことも、城外に出ることも不可能な状況を作り出した。
さらに秀吉は後方の北条方支城を次々と攻略した。石垣山一夜城(いしがきやまいちやじろ)を小田原城に隣接する山上に密かに築城し、完成の日に一斉に木を伐採して城を現れさせ、北条方に心理的打撃を与えた(「石垣山一夜城」の逸話)。この心理戦も秀吉の巧みな戦術のひとつであった。
小田原の役において特筆すべきは、その「戦争ではなく祭り」とも評される陣中の様子である。秀吉は長期包囲の間、家臣の妻子たちを陣中に招き、茶会や能・歌舞伎の前身となる「かぶき者」の演技なども催したとされる。茶道の師・千利休も随行し、数寄屋風の茶室が陣中に設けられた。
北条方の将兵が籠城して苦しむ中、包囲する豊臣方が宴会や芸能を楽しむという光景は、戦意と兵糧においてすでに勝敗が決していることを示すものであり、北条方に深刻な心理的打撃を与えた。
天正18年(1590年)は、日本刀の歴史において特殊な時期である。豊臣秀吉は天正16年(1588年)に「刀狩令(かたながりれい)」を発布し、農民・寺社・百姓から刀剣・弓・槍・鉄砲などを没収することを命じた。刀狩令の名目は「一揆の防止」と「鋳直した武器を大仏建立に使う」というものであったが、実質的には武装した農民層を武士から切り離し、「武士と農民の身分を固定する」ことを目的としていた。
このため小田原の役の頃には、刀剣の所持が武士身分の象徴として確立しつつあった。小田原城内に籠もった北条の将兵たちも、武士としての誇りをもって刀を佩いていたが、その刀は最終的に降伏の証として秀吉に献じられることになった。
小田原の役で活躍した武将の刀剣としては、豊臣家の刀剣文化を代表する「石田正宗(いしだまさむね)」が注目される。石田三成が秀吉から拝領したとされるこの刀は、鎌倉時代最高の刀工・相州正宗の作であり、豊臣政権の絶頂期を象徴する名刀として知られる。三成は小田原の役では兵站・後方支援を担当し、石田正宗を腰に帯びて諸将の指揮に当たった。
徳川家康もこの役に豊臣の諸将として参加しており、後の関ヶ原・大坂の陣で刃を交えることになる相手方の将兵と、この時点ではともに戦っていた。家康が小田原の役で帯びた刀については詳細不明だが、家康の刀剣コレクションは後に幕府の至宝となった多くの名刀を含んでいた。
天正18年(1590年)7月、三ヶ月以上の包囲に耐えきれなくなった北条氏政は、子・氏直の助命を条件に降伏を申し出た。秀吉はこれを受け入れ、氏直の命は助けたが、氏政には切腹を命じた。氏政は従容として死に就き、百年続いた後北条氏はここに滅亡した。
氏直は高野山へ送られ、翌年(天正19年・1591年)に病死した。後北条氏の遺臣たちはその後、各地の大名に仕えるか帰農するかを余儀なくされた。北条氏の行政システム(税制・検地・法度など)の一部は、後の江戸幕府の統治システムにも参考とされたとも言われる。
小田原の役をもって秀吉の天下統一は完成した。これと同時期(天正18年・1590年)、秀吉は奥州(東北)の伊達政宗にも参陣を命じ、奥羽の諸大名を平定。日本全土が初めて単一の権力のもとに置かれた。しかしこの天下統一は、2年後の文禄元年(1592年)に始まる「文禄の役(壬辰倭乱)」——朝鮮出兵——という無謀な対外征略へとつながり、やがて秀吉死後の豊臣政権の崩壊を招いていく。
刀が天下を統一し、そして刀が再び乱世を呼ぶ——小田原の役は、そのいずれの意味においても、日本史の大きな節目であった。