
新着情報 — 最新の入荷情報はカタログをご確認ください。 商品を見る →
1581-09
伊賀国(現・三重県伊賀市周辺)
勢力
織田軍
伊賀国人・惣国一揆
約4分で読めます
伊賀国は、現在の三重県北西部にあたる山がちの地域で、古来より「惣国」と呼ばれる独自の自治システムが発達していた。武士・農民・忍者の区別が曖昧な、特異な社会構造を持ち、外部の権力に対して強い自立心を示してきた。特に「伊賀流忍術」の本場として知られ、服部半蔵の一族をはじめとする忍者集団が山野に精通した諜報・奇襲の技を磨いてきた。
天正7年(1579年)、織田信雄(のぶかつ、信長の次男)は独断で伊賀に侵攻した。しかしこれは事前準備が不十分なまま行われた無謀な軍事行動であり、伊賀の国人衆と忍者の組織的抵抗に遭って大敗を喫した。信雄の軍は山中の地の利を熟知した伊賀勢の奇襲・ゲリラ戦術に翻弄され、多くの将兵を失って撤退を余儀なくされた。
信長はこの失態を激しく叱責し、信雄に謹慎を命じた。しかし天下統一を目指す信長にとって、伊賀の独立勢力は看過できない存在であった。
天正9年(1581年)夏、信長は全面的な伊賀侵攻を決断した。今回は信雄を名目上の総大将としつつ、実質的に信長が全作戦を統括した。動員された兵力は諸説あるが、4万から6万人という大軍であった。伊賀を取り囲む形で複数の経路から同時侵攻するという包囲殲滅戦術が採られた。
信長配下の有力将領——滝川一益(伊勢方面)、蒲生氏郷(近江方面)、丹羽長秀(大和・山城方面)らが各方面を担当し、伊賀の四方から押し包む形で展開した。兵器面では鉄砲の大量投入が計画され、伊賀勢の山岳ゲリラ戦術を物量で圧倒する方針が取られた。
同年9月初旬、全方向から侵攻を開始した織田軍は、数日のうちに伊賀の主要拠点を次々と落とした。伊賀の国人衆と惣国一揆の防衛勢力は、各地で頑強に抵抗したが、圧倒的な兵力差と鉄砲の威力の前に組織的な抵抗を維持することができなかった。
山城や砦に立て籠もった者は皆殺しにされ、逃亡を試みた者も多く討ち取られた。信長は特に伊賀勢の抵抗者を容赦せず、捕虜も取らず徹底的な殲滅を命じたとされる(「伊賀の大虐殺」と後世に呼ばれる所以である)。
しかし忍者たちの多くは組織的戦闘を捨て、山中深くに潜伏することで生き延びた。服部半蔵の父・保長の系統など、一部の伊賀忍者は早期に徳川家康に仕えており(神君伊賀越えの経緯)、天正9年の乱の直前には既に徳川家の傘下に入っていた。
伊賀の乱は、忍術の武器文化と武士の刀剣文化が直接対峙した歴史的事例として注目される。忍者の武器は正面対決よりも暗殺・偵察・陽動を本分とし、苦無(くない)、手裏剣(しゅりけん)、鉤縄(かぎなわ)、煙幕などの小型・携帯性に優れたものが中心であった。
しかし正規戦に突入した際には、忍者も刀を使用した。伊賀流忍術における刀の使い方は通常の剣術とは異なり、鞘を使った防御・打撃や、壁をよじ登る際の足場として刀を用いるなど、実用的多目的使用が特徴とされた。また、忍者が携行する刀(忍刀・忍び刀)は、通常の打刀より短く直刃に近い形状を持ち、狭い場所での取り回しを優先した実用品であった。
一方、この時代の伊賀産の刀は「伊賀物」として独自の評価を受けており、山間地の鍛冶師が生産した実用刀は、華美さよりも堅牢さを重視したものとして知られた。伊賀の乱によってこうした在地刀鍛冶の多くが壊滅したことは、伊賀刀の歴史における一つの断絶点となった。
伊賀の征服は、信長の天下統一構想における重要な一環であった。自治的惣国という中世的秩序の残滓を打破し、中央集権的な支配を全国に及ぼすという信長の政治思想は、伊賀・根来・雑賀(紀州)など、独自の自治体制を持つ地域への徹底的な攻撃として現れた。
伊賀制圧後、信長は信雄に伊賀国を与え、検地・刀狩りの原型となる武装解除政策を先行的に実施させた。百姓の持つ刀・槍・弓を没収し、武力を専一に武士層に集中させるというこの政策は、後に豊臣秀吉が天下統一後に実施した「刀狩令」(天正16年、1588年)の先駆けとなった。
伊賀の乱の翌年、天正10年(1582年)6月には本能寺の変が起こり、信長は横死した。しかし伊賀の組織的自治は二度と復活することなく、忍者集団は各大名の傭兵・諜報員として散り散りになった。彼らの技術と武器の一部は、江戸時代の剣術流派の形成に秘かな影響を与えたと伝承されている。
天正伊賀の乱は、日本刀の歴史において特殊な位置を占める。通常の合戦では刀工が鍛えた銘刀が武将の腰に帯びられ、その切れ味と反りが武功を支えた。しかし伊賀の忍者たちが使用した刀は、無銘で実用本位の「道具」としての刀であった。
この二つの刀文化——武士の美的・精神的文化としての日本刀と、忍者の実用的・秘密的文化としての忍刀——の衝突は、日本刀史における最も稀有な歴史的局面の一つである。現代の忍者ブームや刀剣ゲームが伊賀・甲賀を頻繁に題材とするのは、この歴史的背景への無意識の共鳴であるとも言える。
信長の鉄砲隊と伊賀の忍術が激突した天正伊賀の乱は、戦国時代の終わり——すなわち刀剣が戦場の主役であった時代の終焉——を告げる戦いの一つとして、刀剣史と軍事史の双方において記憶されるべき事件である。