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1579-06-01
八上城(現・兵庫県丹波篠山市北部)および丹波国各地
勢力
明智軍(織田方)
波多野軍(八上城籠城方)
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天正7年(1579年)6月、明智光秀は数年越しの難攻不落・八上城(やかみじょう、現・兵庫県丹波篠山市)攻略を完成させ、丹波国全域の平定を成し遂げた。この「丹波平定・波多野氏滅亡」は、光秀の武将としての最大の達成であるとともに、後の本能寺の変(天正10年・1582年)との関連で幾多の伝説を生んだ歴史的事件でもある。
丹波国(現・京都府中部・兵庫県東部)は、京都の北西に隣接しながら山岳地形が険しく、中世以来、土豪・国衆が割拠する難治の地であった。戦国時代における丹波の主要勢力は、赤井氏(荻野氏)・波多野氏・内藤氏などであった。
波多野氏は丹波篠山盆地(現・兵庫県丹波篠山市)を本拠とし、八上城を居城とした。八上城は標高459メートルの高城山に築かれた典型的な山城で、三方を急峻な尾根と谷に守られた天然の要害である。「難攻不落」と称されたこの城の攻略が、光秀の丹波平定における最大の難関であった。
織田信長は天正3年(1575年)頃、明智光秀に丹波攻略を命じた。光秀は当初、波多野秀治らを調略によって味方に引き込むことに成功した。しかし天正4年(1576年)8月、丹波国衆が一斉に反信長に転じるという「波多野氏の翻意」が発生し、光秀は丹波から撤退を余儀なくされた。この大失態は信長の激怒を招いたとも伝わる。
光秀はその後、丹波攻略を再開した。天正6年(1578年)には赤井直正(赤鬼と称された強将)が死去したことで赤井氏の抵抗力が著しく低下し、光秀は丹波北部・中部の支配を固めた。
最後まで抵抗したのが波多野秀治・秀尚兄弟の八上城であった。光秀は正面攻撃を避け、城の周囲に多数の付城を構築する「付城作戦」を展開し、城を完全に孤立させた。長期の兵糧攻めによって城内の食糧は底をつき、籠城兵の士気は限界に達した。
光秀は降伏交渉において、波多野秀治に「命は保証する」と約束したとされる。この約束の担保として、光秀の母(一説には叔母・妻木氏)が八上城に人質として送られたとも伝わるが、この伝承の史料的根拠は乏しく、後世の創作・潤色が含まれる可能性が高い。
天正7年(1579年)6月、波多野秀治は降伏し、八上城は落城した。秀治・秀尚兄弟は信長のもとへ連行されたが、信長はかつての裏切りを許さず、両人を処刑した。
伝承によれば、この処刑に激怒した波多野の旧臣らが、人質として八上城に留まっていた光秀の母(叔母)を報復として処刑したとされる。この悲劇が光秀の信長への怨恨を深め、天正10年の本能寺の変の遠因の一つになったという説は江戸時代から流布したが、現代の歴史研究では史料的裏付けに乏しいとされている。
丹波を平定した光秀は、丹波亀山城(現・京都府亀岡市)と福知山城(現・京都府福知山市)を整備・拡充して支配の拠点とした。光秀は丹波において善政として知られ、検地の実施など合理的な統治を行ったとされる。
丹波の刀鍛冶に関する記録は乏しいが、近畿の大消費地に近い丹波では実用的な在地鍛冶の存在が推定されている。光秀自身が愛用した刀については、「薬研藤四郎」(名物刀剣)との関わりが江戸時代以来の伝承にあるが、その史料的根拠は確実ではない。
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀は信長が京都・本能寺に宿泊中であることを知り、軍を向けて信長を自刃に追い込んだ。丹波平定から僅か三年後のことである。本能寺の変の動機については「怨恨説」「野望説」等が論じられてきたが、現代の研究では信長との複雑な権力関係や待遇への不満、機会の偶然的重合等が複合的に絡み合った結果として理解されることが多い。
八上城跡(兵庫県丹波篠山市北部)は現在も山頂に遺構が残り、篠山城下からのハイキングコースとして知られている。明智光秀とゆかりの深い亀岡市・福知山市にはそれぞれ光秀を顕彰する史跡・博物館が整備されており、丹波攻略に関連する史跡が今も残されている。