※画像はイメージです。滝川一益
Takigawa Kazumasu
織田信長の東国方面軍司令官・関東管領代
解説
滝川一益(1525-1586)は、織田信長の重臣として東国戦略の要を担った戦国武将である。伊賀・伊勢方面の攻略から関東への進出まで、信長の版図拡大に欠かせない役割を果たし、本能寺の変後には「天正壬午の乱」の悲劇の主役となった。
一益は近江国(現在の滋賀県)出身とも、伊賀国出身とも伝わる。出自は謎の多い人物であり、いつ信長に仕えたかも明確ではないが、永禄年間(1558-1570)には信長の有力家臣として頭角を現していた。その軍事的才能は信長に高く評価され、伊勢・伊賀方面の統治を任されるほか、対本願寺戦でも活躍した。
天正10年(1582年)、武田氏滅亡後の論功行賞において、一益は上野国(現在の群馬県)と信濃国の一部を与えられ、関東管領代として関東地方の統治を任された。これは信長の関東・東国支配戦略の要であり、一益にとって最大の栄達であった。しかし同年6月2日、本能寺の変が勃発。明智光秀に信長が討たれたという報が一益のもとに届いたとき、一益は関東武将の盟主的地位にあったにもかかわらず、北条氏政ら関東の有力大名たちが離反し始めた。
上野国神流川において、一益は北条氏の大軍と激突した(神流川の戦い、1582年)。数で圧倒的に劣勢であった一益は奮戦するも敗れ、わずかな手勢とともに伊勢国へ退却せざるをえなかった。翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、一益は羽柴秀吉ではなく柴田勝家に与し、伊勢長島城に拠って抗戦する。しかし四月二十三日に勝家が北ノ庄で自害し、二十九日には織田信孝も自害して孤立、一益は七月に降伏した。所領はことごとく没収され、京都妙心寺で剃髪して出家している。以後は秀吉の家臣として遇され、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは秀吉方として蟹江城に拠ったが、徳川軍に敗れてかつての威光は戻らなかった。天正14年9月9日(1586年)、越前大野で死去。享年62。
日本刀との関わりにおいて、一益は伊賀・伊勢攻略の過程で多くの刃傷沙汰の現場に立ったことで知られ、実戦に耐える質実な刀剣を重んじたとされる。信長の贈刀記録にも一益の名が見られ、名刀を賜ったことが記録に残る。また一益が統治した上野国・伊賀国は各地に刀鍛冶の伝統を持つ地域であり、地域の刀剣文化とも深い縁を持っていた。神流川で敗走した際、一益が携えていた太刀は同族に守られて尾張まで持ち帰られたという伝承も残る。
所持した刀剣
- 信長より賜った名刀(贈刀記録あり)
- 伊賀・上野の実戦で用いた質実な打刀