※画像はイメージです。佐久間盛政
Sakuma Morimasa
鬼玄蕃・賤ヶ岳七本槍の宿敵
解説
佐久間盛政(1554-1583)は、「鬼玄蕃(おにげんば)」の異名を持つ戦国の猛将であり、柴田勝家配下の武将として賤ヶ岳の戦い(1583年)で羽柴秀吉軍と激闘を繰り広げた人物である。佐久間信盛の甥にあたる。賤ヶ岳の戦いにおける無謀な突出が自身の命取りとなったが、その勇猛さは敵味方から「鬼玄蕃」と畏怖された。
盛政は尾張国の武士の家に生まれ、若くして柴田勝家の下で頭角を現した。越前(現在の福井県)を本拠とする勝家の重臣として、北陸方面での数々の合戦で武名を轟かせた。その激烈な戦いぶりから「鬼玄蕃」と渾名され、荒れ狂う鬼神のような戦闘スタイルは敵を戦慄させた。
天正11年(1583年)、本能寺の変(1582年)後の後継者争いにおいて、柴田勝家と羽柴秀吉が衝突した賤ヶ岳の戦いが勃発した。この戦いにおいて盛政は、中川清秀が守る大岩山砦を急襲して陥落させるという大功を挙げた。しかし勝家から「追撃をやめて撤退せよ」という命令が届いたにもかかわらず、盛政は猛将の本能のまま追撃を続けた。この独断が致命的な失策となった。秀吉は盛政の孤立した部隊を目がけて大軍で反撃し、盛政は大敗を喫した。
賤ヶ岳の戦いの敗北後、盛政は逃亡中に捕えられ、秀吉に引き渡された。秀吉は盛政の武勇を認め、臣下として迎えることを提案したとも伝わるが、盛政はこれを拒んだ。その後、京都市中を引き回されたうえで処刑された。享年30歳。「鬼玄蕃」と恐れられた猛将の短くも激烈な生涯は、戦国の武士道の極致として後世に語り継がれている。
日本刀との関わりにおいて、盛政は「鬼玄蕃」の名にふさわしい荒々しい剣技の使い手であったと伝わる。北陸の激戦では実戦に即した重厚な刀剣が求められ、盛政の愛刀もそのような実戦向きの業物であったとされる。賤ヶ岳での激闘を生き抜いた刀は、後に尾張・加賀の刀剣収集家の手に渡ったという伝承もある。大岩山砦を強襲した際の乱戦では、盛政自ら刀を振るって敵兵を切り伏せたと伝えられ、その刀技は戦国随一の荒武者に相応しいものであった。
所持した刀剣
- 越前・加賀の刀鍛冶による実戦向き大刀
- 賤ヶ岳の激闘を生き残った「鬼玄蕃」の愛刀