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1656-00-00
Edo
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長曽祢興里(ながそね おきさと)は、生年不詳、延宝6年(1678年)6月24日に没した江戸時代の刀工である。剃髪して入道名を虎徹(こてつ)と名乗ったため、長曽祢虎徹興里、長曽祢興里入道虎徹などとも称される。
その出身については、一般に近江国長曽根村の出とされるが、近江説と越前説の両方が存在し、確定していない。生年についても慶長10年(1605年)越前生まれとする説、慶長元年(1596年)近江長曽根生まれとする説などが伝えられ、一致を見ない。確かなのは、長曽祢一族がもともと雑鍛冶の集団であり、甲冑師を生業としていたということである。
虎徹の前半生は刀工ではなく甲冑師であった。この事実は後世の推測ではなく、本人の作刀に残された銘によって裏づけられる。彼は自らの刀の銘に「至半百居住武州之江戸」——五十歳に至って武州江戸に居住する——と記しており、五十歳前後で江戸に移り、刀工へ転じたことを自ら明かしている。東京国立博物館には「小田籠手」が伝わり、馬手(右)に「於武州江戸作之」、射向(左)に「長曽祢興里」と銘が入る。刀剣以外に甲冑や兜の作品も残されており、甲冑師としての技倆がそのまま江戸へ持ち込まれたことを物語る。
甲冑師が刀工へ転じた背景には、時代の変化がある。大坂の陣が終わって以降の泰平のもとでは大規模な合戦が起こらず、甲冑の需要は激減した。実戦用の具足を作り続けることでは一族を養えない。一方、江戸は幕府の膝下として人口と武家人口が急増し、新たな刀剣需要が生まれていた。
移住の時期については資料に幅がある。刀剣商や研究者の間では明暦元年(1655年)以前と推定する見方があり、明暦2年(1656年)に江戸へ出て刀工へ転じたとする記述も広く行われている。東京富士美術館の収蔵品解説は「近江国長曽祢村の甲冑師で、越前福井を経て、明暦の始め頃に五十歳前後で刀匠に転じ江戸に移り、下谷に住した」とまとめている。いずれにせよ明暦年間の初頭、五十歳前後での転身であった点は諸説が一致する。
江戸での居所は一箇所ではなく、本所割下水、上野池の端、湯島、神田と移り住んだと伝えられる。晩年には上野の御花畑付近に住し、「住東叡山忍岡辺」(東叡山=寛永寺、忍岡=上野の丘)と銘に切っている。重要文化財に指定される「刀 銘 住東叡山忍岡辺長曾禰虎入道 寛文拾一年二月吉祥日」(富山県・秋水美術館蔵)は、この住地銘を持つ一振りである。
作刀の師については、和泉守兼重を師とする説が定説とされている。作刀期間は明暦から延宝頃までの約20年間と考えられており、五十歳からの二十年という、刀工としては異例に短い活動期間のうちに、新刀第一の名工と評されるまでに至った。
虎徹の作は、銘の字体によって制作時期がおおよそ判別できる。「虎徹」を表す漢字は作刀時期により変遷し、古い順に『古徹』『虎徹』(通称「はねとら」)『乕徹』(通称「はことら」)が用いられた。「古徹」は万治年間(1658〜1661年)以前、「乕徹」は寛文4年(1664年)秋頃からの使用とされる。このほか「興」の下部が「い」に見えることから『い興』と呼ばれるもの、「奥」に見えることから『おく里』と呼ばれるものなど、「こ」の字以外にも複数の見分け方がある。
これほど頻繁に銘を変えた理由は、存命中から切れ味抜群で人気が高く、偽物が多数作られたことへの対応策であったと考えられている。つまり銘の変遷そのものが、虎徹という刀工の同時代的な人気の証拠になっている。
虎徹の作風は、反りが浅く、鋒(きっさき)が詰まり、鎬幅が広く鋭い感じの姿を示す。地鉄は小板目がよく詰んで美しく、刃文は湾れて刃縁に小沸が微塵につき、明るく冴える。刃文には珠のような均一の大きさの丸みが連続して描かれる「数珠刃」風のものがあり、代表的な作域として知られる。
その切れ味は、当時の試し斬りによって実証されている。虎徹の作には御様御用の山野加右衛門永久による金象嵌の截断銘を持つものが複数現存する。東京国立博物館蔵の「刀 銘 長曽祢虎徹入道興里/(金象嵌銘)四胴 山野加右衛門六十八歳ニテ截断 永久(花押) 于時寛文五年二月廿五日」、東京富士美術館蔵の「刀 銘 長曽祢興里入道乕徹/(金象嵌)寛文五年十二月十六日 山野加右衛門六十八歳永久(花押) 四ツ胴截断」がその例で、後者は刃長70.1センチメートル、反り0.8センチメートルを測る。いずれも四つ胴——重ねた四体を一太刀で断つ——を記録した銘である。徳島藩主蜂須賀家に伝来した「蜂須賀虎徹」も、寛文5年11月11日に山野加右衛門永久が二つ胴を截断した金象嵌銘を持つ。
切れ味にまつわる逸話として名高いのが「石灯籠切虎徹」である。「刀 銘 長曽祢興里入道乕徹 石燈篭切」と切付銘のある二尺一寸三分(約64.5センチメートル)の無反りの刀で、注文主の旗本に切れ味を証明するため松の枝を切ろうとしたところ、勢い余って傍らの石灯籠まで切り込んでしまったという伝承に由来する。本阿弥光遜は『刀談片々』において、虎徹の作品中もっとも著名なものとしている。無反りという特別注文と思われる体配は、虎徹の作中でも群を抜いて異風である。
寛政9年(1797年)に刊行された『懐宝剣尺』において、虎徹は最高位の「最上大業物」に列せられた。山城国の名工・堀川国広とともに新刀の横綱と評され、新刀随一の匠として位置づけられている。養子(あるいは実子)である二代・長曽祢興正もまた最上大業物に選ばれており、虎徹の名は一代で終わらなかった。
しかし人気は贋作を生んだ。虎徹の偽銘は江戸期を通じて大量に作られ、幕末には細田直光(通称「鍛冶平」)のように多くの刀工の偽銘を彫った人物も現れた。刀剣学者の佐藤寒山は、収集家の戒めとして「虎徹をみたらうそと思え」という言葉を紹介している。興里作として登録されているおよそ200振のうち、正真と認められるのは12、13振にすぎないともいわれる。
この贋作問題が最も有名な形で現れたのが、新選組局長・近藤勇の佩刀である。近藤は文久3年(1863年)10月21日付の手紙で虎徹の大小を所持していると記し、池田屋事件の3日後の手紙には「下拙は刀は乕徹故にや、無事に御座候」と書き送っている。しかしその入手経路には源清麿作の刀を虎徹と偽って売られたとする説、鴻池家からの拝領説、斎藤一が京都で購入した無銘刀を譲られたとする説など諸説があり、現在の通説では近藤の虎徹は興里の真作ではないとされている。
虎徹の作には国の重要文化財に指定されたものが複数ある。昭和3年(1928年)4月4日指定の「刀〈銘 長曾禰興里入道虎徹〉」は三尺二寸五分という長大な作で、寛文2年に紀州徳川家初代・徳川頼宣の注文打ちとして作られ、紀州徳川家に伝来したのち昭和2年に紀州東照宮へ奉納された(和歌山県立博物館寄託)。ほかに昭和24年(1949年)指定の個人蔵の一口、昭和27年(1952年)指定の秋水美術館蔵および刀剣博物館保管の各一口、昭和34年(1959年)指定の京都国立博物館蔵の一口がある。
重要美術品では、八幡大菩薩・天照皇大神宮・春日大明神の三神号と三つ葉葵紋を持つ短刀「蓬莱山虎徹」(寛文11〜12年頃、戸田松平家の注文打ち)が知られる。号を持つ作としては、鳥取藩主池田家に伝わり浦島太郎とされる人物の彫物がある脇指「浦島虎徹」(万治3年12月)、勝海舟の愛刀であったことから名づけられた「海舟虎徹」(刃長71.2センチメートル)などがある。彦根城博物館には幕末の大老・井伊直弼の指料であった脇指が、江戸東京博物館には数少ない興里の薙刀が収蔵されている。
長曽祢虎徹の江戸移住は、単なる一職人の転職ではない。甲冑という需要の消えた産物から刀剣へ、地方から江戸へという二重の移動であり、泰平の到来が武器製作の産業構造をどう作り変えたかを示す事例である。甲冑師として鉄を扱ってきた経験が、詰んだ小板目肌と強靭な地鉄という虎徹独特の造り込みに結実したと考えれば、その転身は断絶ではなく蓄積の転用であった。
わずか二十年ほどの作刀期間で新刀の頂点に立ち、生前から贋作が横行するほどの需要を集め、幕末には新選組局長の佩刀伝説にまで名を残した——五十歳での転身が生んだ結果としては、日本刀の歴史上ほとんど例を見ないものである。