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1657年03月02日
江戸(江戸城および市街の大半)
勢力
江戸幕府(被災・復興側)
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明暦3年1月18日(西暦1657年3月2日)から20日にかけて、江戸の町は三度の出火に見舞われた。のちに「明暦の大火」と呼ばれる大火災である。江戸の市街の大半に加え、江戸城の本丸・二の丸・三の丸と天守が焼け落ち、死者は10万人前後に及ぶとする説が広く紹介されている。ただし死者数は史料によって幅があり、正確な数字は確定していない。
なお、日付は旧暦(太陰太陽暦)である。明暦3年1月18日は西暦では1657年3月2日にあたり、本項の「date」もこれに合わせている。以下、月日は特に断らない限り旧暦で記し、必要に応じて西暦を添える。この火災は、ロンドン大火(1666年)、ローマ大火(64年)と並んで世界三大大火に数えられることがある、と紹介されることも多い。
江戸城の天守が失われたことは、江戸時代の城郭史のうえでも大きな転換点であった。さらに、江戸城には将軍家が代々受け継いだ刀剣が数多く収められており、その被災は日本刀の歴史にも影を落とした。本項では、この大火の経過と江戸城天守の焼失、刀剣への影響、そして復興までをたどる。
明暦3年の冬、江戸は長く雨が降らず乾燥した日が続いていたと伝えられる。当時の江戸は、武家屋敷・寺社・町人地が密集し、町屋の多くは木造・板葺きの建物であった。冬から春にかけては北西の季節風が強く吹き、一度火が出れば大きく広がりやすい条件がそろっていた。江戸では火事が頻発し、「火事と喧嘩は江戸の華」と後世にいわれるほどであったが、明暦の大火はその中でも桁外れの規模であった。
当時の将軍は第4代・徳川家綱である。家綱は先代の家光が亡くなった慶安4年(1651年)に11歳前後で将軍職を継いでおり、明暦3年当時は17歳であった。政務は叔父にあたる保科正之らの補佐のもとで運営されていた。大火のあとの復興策は、幕府がこうした体制のもとで取り組んだ最初の大規模な都市政策のひとつとなった。
最初の出火は1月18日の昼過ぎ、本郷丸山付近とされる。出火元については本郷の本妙寺とする説が広く語られており、いわゆる「振袖火事」の伝承(供養のために焼いた振袖が風に舞い上がって寺に火が移ったとする話)も知られている。しかし、この伝承は後世に整えられた物語である可能性が高く、本妙寺が出火元であったかどうかも、複数の説が存在するとされる。本項では、確実な事実としては扱わない。
強い北西風にあおられた火は、湯島、神田、日本橋方面へと南東に燃え広がり、江戸の中心部の町人地を焼いた。さらに隅田川(大川)にまで及び、橋が少なかった当時、逃げ場を失った人々が川辺で多数亡くなったとされる。
翌19日の昼前には、小石川伝通院付近から二度目の出火があった。これは北西からの風にあおられて、江戸城の北側から東側にかけての武家地を焼いた。続いて同日夕刻、麹町付近からも出火したとされ、こちらは江戸城の南側にあたる地域へと拡大し、芝のあたりにまで達した。
江戸城に火が及んだのは19日の夜から20日にかけてのことで、天守・本丸御殿・二の丸・三の丸が相次いで炎に包まれた。火災が収まったのは20日朝のことと伝えられる。
焼失した天守は、寛永15年(1638年)に完成した第三代の天守で、江戸城の天守として最大規模のものであったとされる。外観は五層で、壁面は銅板を張り、屋根は銅瓦葺という特徴を持った(後年の記録に基づく通説である)。これは徳川幕府の権威を象徴する建築物であり、将軍がこの城に居する政治の中心の象徴であった。
天守が焼け落ちたあと、幕府は再建の準備を進めた。加賀藩前田家が天守台の石垣を築き直したことが知られており、その天守台は現在も皇居東御苑に残っている。ところが、保科正之が再建に反対したとされる。その論拠は、天守は織田・豊臣の時代のような戦の道具であり、泰平の世においては実用性が乏しいこと、そして、そうした費用を市中の復興と民の救済に充てるべきだ、というものであった。この方針は幕府に受け入れられ、天守は以後再建されなかった。今日の皇居東御苑に天守台のみが残るのは、このためである。この判断は、「泰平の世の統治は城の威容ではなく、民政の安定による」という考え方を示すものとして語られることも多い。ただし、再建中止の事情については、財政の問題などを含めて複数の見方が存在する。
江戸城や諸大名の江戸屋敷には、将軍家や大名家に伝わる刀剣が多数収蔵されていた。この火災で焼けた刀剣の名は、のちに各種の記録や刀剣書にまとめられる形で伝えられている。本項の典拠とした日本刀関連の記事では、焼失した刀剣として、無銘の藤四郎(粟田口吉光の作とされる短刀)、骨喰藤四郎、鯰尾藤四郎、江戸長銘正宗、獅子貞宗などの名が挙げられている。
ここで注意すべき点がいくつかある。第一に、これらの名物の被災の事情は一律ではなく、1本ごとに異なる。骨喰藤四郎や鯰尾藤四郎は、豊臣家に伝来した藤四郎吉光の作として知られ、大坂の陣(1615年)で大坂城の落城に際して焼け、その後に再刃(焼き直し)されたとする来歴が語られている刀である。つまり、この2口は「火災で焼け、刃を焼き直された」という履歴を重ねている。明暦の大火と大坂城の火災のどちらにどの履歴が対応するのかは、個々の伝来記録を確かめる必要があり、本項では断定しない。
第二に、「焼け身」とは、火災によって刀身が高熱を受け、焼き刃の働きを失ったり、地鉄が荒れたりした状態を指す。古来、焼け身になった刀は、もとの出来の姿を失ったとみなされた。ただし、刃文を焼き直す「再刃」を施して、刀として使える状態に戻す例も多い。再刃されたものは、鑑賞上の評価が下がる場合があるとされる一方、名物として伝来の価値は保たれることもあった。
第三に、「焼失名物」の扱いである。江戸時代中期の享保年間に、本阿弥家が将軍・徳川吉宗の命により、天下の名物刀剣を調べてまとめた『享保名物帳』には、焼失したことが記された刀剣も収められているとされる。これらは、現存しなくなった刀の名と伝来をとどめる貴重な記録になっている。その中には、明暦の大火で焼失したと記される刀もあるとされる。
こうした刀剣の被災は、名刀が「美術品」であると同時に、大名家や将軍家の威信を示す財産であったことを物語る。城の天守とともに、刀剣という「武家の象徴」が失われたことは、江戸時代の武家の人々にとって象徴的な出来事として受け止められたと考えられるが、同時代の人々の反応を伝える史料は限られており、断定的に語ることは控えたい。
大火の直後、幕府は被災した人々への救済に乗り出した。食糧を配る「御救小屋」が設けられ、米や金銭が給付されたと伝えられる。遺体の埋葬のために設けられた場所に、のちに回向院が建てられたことはよく知られている。回向院は、明暦の大火の犠牲者を供養する寺院として今も両国に残る。
復興にあたっては、都市そのものの構造が見直された。武家地・寺社・町人地の配置が改められ、御三家の屋敷が江戸城内から外へ移された。延焼を防ぐための火除地や広小路が各所に設けられ、隅田川には、それまで防衛上の理由から架けられていなかった橋として両国橋が万治2年(1659年)に架けられた。さらに、大名に火消しを命じる大名火消しの制度や、のちの定火消の整備も、この時期に進められたとされる。
これらの施策は、江戸が防災を意識した都市へと姿を変えていく契機になった。しかし、江戸では以後も大火が繰り返されたため、明暦の大火のあとの対策がどこまで有効であったかについては、評価が分かれる。
この大火は、刀剣の歴史にとって二つの面で意味を持つ。ひとつは、名物と呼ばれる名刀の「現存しない刀」を生んだことである。刀剣は鉄でできているため火に強いように思われるが、火災の高熱にさらされると焼きの働きが失われてしまう。焼け身となった刀が再刃や研ぎ直しを経て伝わる例は少なくなく、明暦の大火もまた、そうした刀剣の履歴のひとつの節目として語られる。
もうひとつは、刀剣の記録・伝来を整理する営みが進んだことである。名物帳をはじめとする記録は、失われた刀の情報をとどめる役割を果たした。江戸の町と城の被災は、結果として、刀剣をめぐる記録の価値を高めたといえる。
ただし、どの刀がどの時点で焼け、どの刀が再刃され、どの刀が現存しているかは、個々の刀について記録を確かめる必要がある。この項は、典拠となる記事の範囲にとどめて叙述した。
天守を再建しないという決断は、江戸城のその後の姿を決定づけた。以後、江戸城は天守を持たない城として幕末まで続き、今日の皇居東御苑に天守台のみを残している。刀剣と城、どちらも武家の象徴であったものが同時に失われた1657年の3日間は、江戸時代が戦の時代から泰平の時代へと移りきったことを象徴する出来事として、今日も語り継がれている。