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天正6年3月〜天正7年3月(1578年〜1579年)
越後国(現・新潟県)を中心とする上杉領内
勢力
景勝方(長尾景勝)
景虎方(北条三郎・上杉景虎)
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天正6年(1578年)3月13日、越後の龍・上杉謙信は春日山城において49歳で急逝した。謙信は生涯独身を貫き、正式な実子を残さなかった。後継者として指名されていたのは二人の養嗣子——長尾政景の遺子・上杉景勝(長尾顕景)と、北条氏康の七男を養子に迎えた上杉景虎(北条三郎)であった。謙信の死は即座に上杉家を二分する骨肉の争いへと発展し、越後全土を二年間にわたる内乱に巻き込んだ。この乱を「御館の乱」と呼ぶ。
御館の乱において、上杉謙信の遺した財宝・武具・名刀の帰属は、家督争いと不可分の問題であった。謙信は生涯にわたって刀剣を深く愛し、越後における最高の刀工を保護・育成した。また、諸国の戦で得た戦利品の中には多数の名刀が含まれており、春日山城の宝蔵には謙信所縁の名品が保管されていた。
なかでも著名なのが、国宝「山鳥毛(さんちょうもう)」や「姫鶴一文字(ひめづるいちもんじ)」といった上杉謙信ゆかりの名刀である。これらの謙信の遺愛刀は御館の乱を経て景勝に継承され、上杉家の家宝として伝来した。
景勝が引き継いだ上杉家の刀剣コレクションには、謙信が川中島・手取川等の戦場で手に入れた戦利刀、越後・相州系の刀工が打った実用刀、さらには公家・寺社から贈られた儀礼用の太刀も含まれていた。御館の乱を経て景勝の手に渡ったこれらの名品は、後の上杉氏の文化的・政治的権威の基盤ともなった。
謙信が後継者を明示しないまま急死したことで、景勝派と景虎派の対立は即座に表面化した。景勝は春日山城の「御金蔵」を迅速に押さえ、謙信の遺産(金銭・武具・刀剣を含む)を先占することで軍事的・財政的優位を確立した。一方、景虎は前関東管領・上杉憲政の居館「御館(おたて)」に拠点を置き、実家の北条氏政(相模)に援軍を求めた。
景勝の側近として最も重要な役割を果たしたのが、直江兼続である。天正6年当時まだ17歳前後の若者であった兼続は、以後の上杉家の実質的な舵取りとなる。愛(愛・仁義)の前立で知られる兼続の兜とともに、景勝の刀剣コレクションの管理・活用も兼続の職務に含まれた。
御館の乱において最大の外部変数となったのは、武田氏の介入である。武田勝頼は当初景虎方に有利な立場を示しながらも、最終的には景勝から多額の和睦金(上杉謙信の軍資金の一部)と越後領の割譲を条件に景勝支持へと転じた。この「裏切り」によって景虎方は決定的に孤立し、北条氏の本格的な援軍も間に合わなかった。
天正7年(1579年)3月、御館は景勝軍に攻められて落城。上杉景虎は鮫ヶ尾城(現・新潟県妙高市)に落ち延びようとしたが、城主・堀江宗親に裏切られ、自刃して果てた。享年26歳。景虎の悲劇的な最期は、戦国武将の無常を象徴する出来事として後世に語り継がれている。
御館の乱を制した上杉景勝は、謙信の遺産を完全に継承し、越後から越中・出羽にかけての上杉領を固めた。景勝自身も刀剣を深く愛し、越後・出羽の刀工を保護した。景勝が収集・継承した刀剣の中には、謙信ゆかりの名品のほか、小田原征伐(1590年)後に豊臣秀吉から下賜された刀も含まれる。
また、直江兼続は景勝体制において刀剣管理・外交・軍事の三面を担う実力者となった。関ヶ原の戦い(1600年)において景勝・兼続は西軍に与し、徳川家康と対立した。この結果、上杉家は会津から米沢への大幅な減封を余儀なくされたが、米沢藩においても上杉の刀剣文化は継承され、後の米沢藩御用鍛冶の礎となった。
御館の乱は、越後という刀剣名産地の覇権をめぐる争いでもあった。越後の刀工は相州伝の技法を吸収した豪壮な作風で知られ、謙信時代には最高水準の刀剣生産が行われた。乱後の景勝体制においても、越後刀工の保護は継続され、上杉家の武威の象徴として名刀が機能し続けた。