※画像はイメージです。明暦(めいれき)
Meireki Era
明暦(めいれき)は1655年から1658年まで続いた江戸時代前期の元号で、四代将軍徳川家綱の治世にあたる。明暦3年(1657年)1月の「明暦の大火」(振袖火事)により江戸市中の大半が焼失し、刀剣研究家・伊藤三平の推計では江戸だけで約10万口の刀剣が失われたとされる。享保名物帳に記録された168口の名物刀剣のうち69口がこの大火で焼失したと伝わり、上杉太刀・大黒太刀・庖丁藤四郎など名だたる名刀が失われた。大量焼失への対応が、後の寛文新刀の隆盛を準備することになった。
解説
明暦の大火と刀剣の焼失
明暦は1655年(明暦元年)から1658年(明暦4年)まで続いた元号で、四代将軍徳川家綱の治世にあたる。この時代を語る上で欠かせないのが、明暦3年(1657年)1月に発生した「明暦の大火」(振袖火事)である。江戸市中の大半を焼き尽くしたこの大火は、江戸城天守をはじめ大名屋敷・旗本屋敷・町屋を焼き払い、死者は数万人に及んだとされる。
刀剣研究家・伊藤三平の推計によれば、明暦の大火により江戸だけで約10万口の刀剣が焼失したとされる。享保4年(1719年)に編纂された『享保名物帳』に記載された168口の名物刀剣のうち、69口がこの大火で焼失したと記録されており、当代随一の名刀コレクションに甚大な被害が及んだことがうかがえる。焼失した名刀には、上杉謙信ゆかりと伝わる「上杉太刀」、足利将軍家伝来の「大黒太刀」、徳川将軍家に伝来した「庖丁藤四郎」などが挙げられる。焼け身となった刀を研ぎ直して蘇らせる「焼直し」が各地で行われたことも記録されている。
寛文新刀への布石
大量の焼失刀剣を補うため、江戸では刀剣需要が急激に高まった。焼失した大名家・旗本家の武具一式を再調達する必要が生じたことは、寛文年間(1661-1673年)に隆盛した「寛文新刀」の需要を準備したと位置づけられる。寛文新刀は反りが浅く切先が延びない、実戦での突き技を意識した姿を特徴とするが、これは明暦の大火後に進んだ、竹刀を用いた剣術稽古の普及や、火事による焼失刀剣の代替需要という社会的背景と密接に関わっていた。
代表的刀工
甲冑師から刀工に転じ、江戸で活動した長曽祢虎徹は、明暦から万治年間にかけての時期に作刀を開始したと伝えられ、後の寛文期に新刀最上作に数えられる名工へと大成していく。この時代は、虎徹をはじめとする江戸の刀工たちが、大火後の需要拡大の中で腕を磨いていった時期でもあった。
社会的文脈
明暦の大火を機に江戸の都市計画は大きく見直され、火除地・広小路の設置など防災都市への転換が図られた。武家社会においても、焼失した重代の家宝刀剣を失った大名家・旗本家が多く、家格や由緒を象徴する刀剣の再整備が急務となった。太平の世における刀剣が、実戦具から家格・伝来を体現する「家宝」としての性格を強めていく転換点の一つとして、明暦の時代は位置づけられる。
この時代の刀の特徴
- 明暦(1655-1658年)は四代将軍徳川家綱の治世、明暦3年(1657年)の大火で江戸の大半が焼失
- 刀剣研究家・伊藤三平の推計で江戸だけで約10万口の刀剣が焼失したとされる
- 享保名物帳記載168口のうち69口がこの大火で焼失、上杉太刀・大黒太刀・庖丁藤四郎など名刀が失われた
- 焼失分を補う需要拡大が、寛文新刀(反り浅く突き技志向の姿)の隆盛を準備した
- 長曽祢虎徹が明暦〜万治頃に作刀を開始したと伝わる
- 大火後の都市防災改革と、刀剣が家格を象徴する「家宝」化していく転換点