日明貿易(勘合貿易)
Nichimin Trade (Kangō Trade)
日明貿易(勘合貿易)は応永8年(1401)、足利義満が明へ遣明船を派遣したことに始まり、1404年以降は勘合符による証票制度を用いた公認貿易として1549年まで19回実施された。刀剣は硫黄・銅・扇子・漆器などと並ぶ主要輸出品で、備前長船の量産刀(数打物)が大量に明へ送られたとされる。
解説
貿易の開始と勘合符制度
応永8年(1401)、室町幕府第3代将軍・足利義満は明に遣明船を派遣し、日明国交を樹立した。明皇帝から冊封を受ける形式をとり、応永11年(1404)からは偽の朝貢船を排除するための証票「勘合符」を用いた公認貿易(勘合貿易)が始まった。この貿易は建前上、明皇帝への朝貢という形式(進貢貿易)をとりながら、実質的には利益の大きい商業取引であった。
刀剣という輸出品
進貢貿易では馬・刀剣・硫黄・硯・扇子・屏風などが明皇帝への献上品とされ、公貿易では刀剣・硫黄・銅・蘇木・蒔絵漆器などが明側の銅銭・生糸・絹織物などと交換された。刀剣は硫黄と並ぶ代表的な輸出品で、大量に明へ送られたことが知られている。輸出された刀剣の多くは、備前国長船(現・岡山県瀬戸内市)で生産された「数打物(かずうちもの)」「束刀(たばがたな)」と呼ばれる束売りの量産刀であったとみられ、この貿易需要が長船を室町期を通じて日本最大の刀剣生産地たらしめる一因となった。輸入品は生糸・絹織物が主体で、ほか麻布・薬種・砂糖・陶磁器・書籍・書画・銅器・漆器なども明からもたらされた。
応仁の乱後の主導権争いと寧波の乱
応仁の乱(1467-1477)以降、貿易の実務は幕府から有力守護大名の細川氏・大内氏へと引き継がれた。大永3年(1523)、渡航権をめぐる両氏の対立が中国・寧波での武力衝突に発展した(寧波の乱)。大内氏は前回明から交付された有効な新勘合を携え、正使・謙道宗設のもと3隻の船団で博多から寧波に入港したが、細川氏側も既に無効化されていた旧勘合を用い、正使・鸞岡瑞佐の船団を派遣していた。細川方に雇われていた中国人貿易商・宋素卿が明の役人に賄賂を渡したため、後から到着した細川船が入港手続きを先に済ませてしまい、これに激怒した大内方が細川船を焼き討ちして明使を殺害、追跡してきた明の役人も殺害し紹興まで火を放って船を奪い逃走するという事件に至った。この事件以降、大内氏が貿易の主導権を掌握した。
貿易の終焉
大内氏による貿易独占の後、天文18年(1549)を最後に遣明船の派遣は途絶え、日明貿易(勘合貿易)は幕を閉じた。この約150年間・19回に及んだ公認貿易は、日本刀を国家間の公式輸出品目に押し上げた最初期の事例であり、備前長船をはじめとする刀剣産地の量産体制確立や、日本刀の対外的な評価形成に影響を与えた。
この時代の刀の特徴
- 応永8年(1401)、足利義満の遣明船派遣で開始。1404年から勘合符による証票制度を用いた公認貿易
- 進貢貿易(献上形式)と公貿易(商取引)の二本立て構造。刀剣は硫黄・銅・蘇木・蒔絵漆器などと並ぶ主要輸出品
- 輸出刀剣の多くは備前長船の量産刀「数打物・束刀」とみられ、長船が室町期最大の刀剣産地となる一因に
- 応仁の乱(1467-1477)後は細川氏・大内氏が貿易実務を継承し、渡航権をめぐり対立
- 大永3年(1523)、寧波での細川・大内両氏の衝突「寧波の乱」以降、大内氏が貿易を独占
- 天文18年(1549)の最後の遣明船派遣をもって約150年・19回に及んだ貿易は終焉