※画像はイメージです。永仁(えいにん)
Einin Era
永仁は鎌倉時代後期、正応の次・正安の前にあたる元号(1293年9月-1299年5月)。元寇後の御家人困窮を背景に永仁の徳政令(1297)が発布された時代で、山城伝・来派の来国俊や備前伝の長船派など、各地の刀工が活動を続けた。
解説
永仁(1293-1299)は鎌倉時代後期、正応6年8月5日(1293年9月6日)に天変と関東の地震を理由として改元され、永仁7年4月25日(1299年5月25日)に正安へ改元されるまでの元号である。天皇は伏見天皇・後伏見天皇、鎌倉幕府執権は北条貞時が務めた。この時代の最大の出来事は、永仁5年(1297)に発布された「永仁の徳政令」である。文永・弘安の役(元寇)で異国警固などの負担を強いられながら十分な恩賞を得られなかった御家人は、貨幣経済の浸透とともに困窮を深め、借上(金融業者)からの借財のため所領を質入れ・売却する者が続出していた。徳政令は御家人所領の質入れ・売買を禁じ、既に流出した所領を無償で取り戻させる内容で、鎌倉幕府と武家社会の関係を揺るがす転換点となった。刀剣史の面では、山城伝・来派の名工である来国俊が精力的に作刀を続けており、「銘 来国俊/永仁五年三月一日」の年紀を持つ在銘太刀が現存する(重要文化財)。来国俊は正応から元亨(1288-1324年)に至る長期にわたり作刀を続けたことが年紀作から確認され、永仁年間はその壮年期にあたる。また備前国では長船派の二代目・長船長光が正応2年(1289)の年紀を持つ太刀を残しており、永仁期前後も一派の中心として活動を継続していたと見られる。恩賞不足と経済的困窮に苦しむ御家人層と、なお高い水準を保つ山城・備前の刀剣生産という対照が、この時代を特徴づけている。
この時代の刀の特徴
- 鎌倉時代後期、正応の次・正安の前の元号(1293年9月-1299年5月)
- 永仁5年(1297)、御家人救済のための「永仁の徳政令」発布
- 元寇(文永・弘安の役)後の恩賞不足による御家人困窮が時代背景
- 貨幣経済の浸透と借上(金融業者)の台頭
- 山城伝・来派の来国俊が在銘作「来国俊/永仁五年三月一日」を残す
- 来国俊は正応から元亨(1288-1324)まで長期にわたり作刀
- 備前国では長船派二代目・長船長光が引き続き活動