平宗盛
Taira no Munemori
解説
平宗盛は平清盛の三男として生まれ、兄・重盛や基盛の死後、平家一門の棟梁となった人物である。内大臣にまで昇り、清盛の死後は一門を率いる立場にあったが、軍事的才覚に乏しく、『平家物語』では父・清盛や兄・重盛と比較されて器量に劣る将として描かれることが多い。治承4年(1180)の以仁王の令旨に端を発した治承・寿永の乱では、後白河法皇との関係も次第に悪化し、寿永2年(1183)、木曾義仲の入京を前に安徳天皇や三種の神器を奉じて都落ちを余儀なくされた。
福原、さらに讃岐国屋島へと拠点を移した平家は、一の谷の戦い・屋島の戦いと連敗を重ね、ついに寿永4年(1185)3月24日、長門国壇ノ浦の戦いで一門は壊滅する。安徳天皇や建礼門院ら多くの一門が海に身を投じるなか、宗盛は死にきれず海上を漂っていたところを、嫡男・清宗とともに源氏方に引き上げられ捕虜となった。
平家一門には「小烏丸」と呼ばれる家伝の太刀があったと伝わる。桓武平氏の祖・平貞盛が承平・天慶の乱平定の功により朝廷から下賜されたとされ、以後、平家累代の重宝として一門の棟梁に受け継がれてきた。宗盛はこの重宝の最後の継承者という立場にあり、壇ノ浦での一門滅亡とともに小烏丸の所在も一時途絶えたと伝わる(後年、平家の子孫を称する伊勢家で保管されていたことが判明している)。
捕虜となった宗盛は鎌倉へ護送され源頼朝と対面するも助命は叶わず、京への送還途中、近江国篠原宿において嫡男・清宗とともに斬首された。
『平家物語』では武将としての器量に乏しい人物として厳しく評される宗盛だが、異本の『源平盛衰記』などには、捕虜となってからも我が子・清宗の身を案じ続ける父としての情愛深い姿が描かれる場面もあり、一門滅亡の責を一身に負う象徴的な存在であると同時に、乱世に翻弄された一人の父親としての側面も後世に伝えられている。