万治(まんじ)
Manji Era
万治(まんじ)は明暦の後、寛文の前にあたる元号で、1658〜1661年にあたる。前年の明暦の大火などの災異を理由とする改元とされる。天皇は後西天皇、江戸幕府将軍は徳川家綱であった。江戸新刀の名工・長曽祢興里(虎徹)には「万治三年十二月日」の紀年銘を切り自ら浦島彫を施した脇差(浦島虎徹)が伝わり、同時期には肥前の陸奥守忠吉(肥前忠吉三代)が新刀最上作・最上大業物に位列されて活躍していた。
解説
元号としての万治
万治(まんじ)は明暦の後、寛文の前にあたる元号で、1658年8月21日から1661年5月23日まで続いた。前年に江戸市中を焼いた明暦の大火をはじめとする災異を理由とする改元とされる。この間、天皇は後西天皇、江戸幕府将軍は徳川家綱であった。
虎徹の紀年銘と浦島彫
江戸新刀を代表する刀工・長曽祢興里(ながそねおきさと、号は虎徹)の作には、「万治三年十二月日」の紀年銘を切り、「同作彫之」として自ら浦島彫(うらしまぼり、浦島太郎説話に取材した彫物)を施した脇差が伝わる。この作は「浦島虎徹」の通称で知られ、虎徹自身の作刀年代と彫技の双方を裏づける紀年作として位置づけられる。虎徹は越前から江戸へ出て名声を確立した刀工で、万治年間はその江戸における活動期にあたる。
肥前忠吉三代の活躍
同じ万治年間には、肥前国佐賀の刀工・陸奥守忠吉(肥前忠吉三代)が活躍していた。新刀の位列史料においては、忠吉一門は最上作・最上大業物という最高位クラスに位置づけられており、九州における新刀鍛冶の頂点をなしていた。
東西新刀の並行活動
虎徹の江戸と忠吉の肥前、東西それぞれの新刀名工が万治年間に並行して作刀していたことが、位列史料と現存する紀年銘作から確認できる。明暦の大火という江戸にとっての大きな災厄の直後にあたる万治年間は、復興期の江戸で虎徹が地歩を固めつつあった時期であり、同時に西国肥前では忠吉一門による安定した高品質生産が続いていたという、地域を異にする新刀生産の同時代性を示す元号である。
明暦の大火と改元の背景
万治への改元理由とされる明暦の大火(明暦三年・1657年)は、江戸市中の大半を焼失させた大災害であり、江戸城天守をはじめ多くの武家屋敷・町人地が失われた。改元は災異による年号変更という当時の慣例に沿ったものであるが、江戸という都市そのものが復興工事の渦中にあった時期でもある。虎徹が浦島彫の脇差に「万治三年十二月日」の年紀を刻んだのは、まさにこの江戸復興期の只中であり、刀工たちの活動もまた都市の再建と並行して続けられていたことがうかがえる。
この時代の刀の特徴
- 万治(1658-1661年)は明暦と寛文の間に位置する江戸前期の元号で、明暦の大火後の災異改元とされる
- 後西天皇・将軍徳川家綱の治世で、前年の明暦の大火からの江戸復興期にあたる
- 長曽祢興里(虎徹)の脇差に「万治三年十二月日」の紀年銘と自作の浦島彫があり「浦島虎徹」として伝わる
- 同時期、肥前の陸奥守忠吉(肥前忠吉三代)が活躍し、新刀最上作・最上大業物に位列されている
- 江戸の虎徹と肥前の忠吉一門、東西の新刀名工が万治年間に並行して高水準の作刀を続けていたことが確認できる