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寿永2年(1183年)7月25日
山城国・京都(六波羅・法住寺殿)から西国(福原・大宰府・屋島)へ
勢力
平氏方(都落ちした一門)
反平氏方(京へ迫った軍勢)
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平家都落ち(へいけみやこおち)は、寿永2年(1183年)7月25日、平氏の棟梁・平宗盛が、安徳天皇と三種の神器を奉じ、一門とともに京都を去って西国へ向かった事件である。平清盛の死から2年、倶利伽羅峠の敗戦から約2か月半という時期であり、都を守りきれなくなった平氏が、天皇を連れて退去する道を選んだ。この退去は、平氏の政権が都を失う転機となり、以後の治承・寿永の乱の流れを大きく変えた。
治承4年(1180年)に以仁王の令旨を受けて挙兵した木曽義仲は、北信から北陸道へ勢力を広げていった。寿永2年(1183年)4月、平維盛を大将とする平氏の軍が北陸へ出陣したが、5月11日の倶利伽羅峠の戦いで敗れ、続く篠原の戦いでも義仲軍が勝利した。義仲は6月に越前から近江へ入り、延暦寺との交渉を進め、7月22日には東塔の惣持院に城郭を構えたとされる。
同じ頃、京都をめぐる情勢は四方から締めつけられていた。源行家の軍は伊賀国に迫り、平資盛・平貞能の3千騎は宇治で行家軍に阻まれた。摂津では多田行綱が船を押さえて補給路を断ち、東海道からは安田義定が京へ迫った。平忠度は丹波で100騎を率いていたが撤退している。宗盛は平知盛・平重衡の3千騎を勢多に、平頼盛を山科に配置したが、防衛は絶望的な状況であった。
つまり平氏は、北からは義仲、南や西からは行家や摂津の勢力に挟まれ、兵糧の道も断たれつつあった。京都を一戦で守り抜く見通しは、すでに立たなくなっていたのである。
7月24日、安徳天皇は法住寺殿に行幸した。このときすでに遷都の噂が広まっており、西国への退去が早い段階から計画されていたとも考えられている。
25日未明、後白河法皇は法住寺殿を脱出し、延暦寺に向かった。この知らせは午前4時ごろから広まり、午前8時ごろには事実と判明したという。宗盛は「心モ失セテ見エケレバ」(動転している様子が見て取れた)と記されるほど動揺し、六波羅に火を放って、安徳天皇・建礼門院・近衛基通・一族とともに京都を離れた。
随行した顔ぶれは、3年前の福原行幸に比べて少なかったとされる。小松家の維盛・資盛は、法皇と連絡が取れなかったため、やむなく宗盛の後を追った。資盛は、直前まで宇治で行家の軍と対峙していた。一方、平頼盛と近衛基通は途中で離脱し、京都に残っている。
平氏は安徳天皇と三種の神器を伴って京都を出たが、後白河法皇を連れ出すことはできなかった。法皇が比叡山に逃れて同行しなかったことで、安徳天皇を奉じる平氏の正統性は弱まったとされる。
7月27日、法皇は山本義経の子に護衛されて都に戻り、28日には義仲と行家が入京した。8月20日、神器のないまま、安徳天皇の異母弟にあたる尊成親王が、後白河法皇の院宣を受けて後鳥羽天皇として践祚した。即位の礼は元暦元年(1184年)7月28日に行われている。正史上で初めて二人の天皇が同時に立ち、その状態が約2年間続いた。ここで「践祚」とは天皇の位を受け継ぐことをいい、「即位」はそれを内外に示す儀礼を指す。また「院宣」は、上皇や法皇の意を受けて出される文書である。後白河法皇の院宣による践祚は、法皇が都にとどまって朝廷の主導権を握ったことを示している。
三種の神器とは、八咫鏡、草薙剣(天叢雲剣)、八尺瓊勾玉をいう。都落ちの際に平氏が携えたのは、このうち宝剣として扱われた剣を含む神器一式であった。刀剣の歴史のうえで、この宝剣は朝廷が正統性の象徴として最も重んじた一振りであり、その行方が平氏の命運と結びついたことに意味がある。
宗盛は福原から海路で西へ向かい、大宰府を目指した。8月中旬に九州へ上陸したが、豊後の臼杵や肥後の菊池は動かず、宇佐神宮との提携も失敗した。豊後では緒方惟栄が待ち構えており、資盛の説得も不調に終わっている。
9月、宗盛は後白河法皇に書状を送り、君に背く意思はまったくないと弁明した。しかし法皇はこれを黙殺し、義仲に平氏追討を命じた。10月に平氏は九州を追われ、阿波の田口成良の支援で四国に上陸した。閏10月1日の水島の戦いでは義仲軍の進撃を食い止め、屋島に内裏を建てて新たな本拠とした。
この間、京都では義仲と行家の関係もきしんでいった。行家は11月8日、法皇の命で義仲と入れ替わるように平氏追討のため京を離れたが、11月29日、播磨国の室山の戦いで平知盛・平重衡の軍に敗れている。平氏は西国で戦力を保ち、京を離れた源氏方を押し返す力をなお持っていたことになる。
寿永4年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いで平氏は敗れ、一門は滅亡した。安徳天皇は入水し、数え年8歳で崩御している。神璽(八尺瓊勾玉)と神鏡(八咫鏡)は源氏軍が確保したが、宝剣は失われたとされる。朝廷が宝剣の回収に失敗したことは確実とされる。のちに後鳥羽天皇から順徳天皇の時代にかけて、伊勢神宮から献上された剣を正式な宝剣としたという。
『平家物語』や『太平記』には、宝剣が海底に沈んだことをめぐる解釈も記されている。ただし、草薙剣の実際の所在や形状については、史料に基づく確かな結論は得られていない。
ここまでの内容を、日付順に整理しておく。旧暦の日付で、寿永2年(1183年)のことである。
- 5月11日:倶利伽羅峠の戦いで平維盛の軍が義仲に敗れる。 - 7月22日:義仲が延暦寺の東塔惣持院に城郭を構える。 - 7月24日:安徳天皇が法住寺殿に行幸する。 - 7月25日未明:後白河法皇が法住寺殿を脱出して延暦寺へ向かう。宗盛が六波羅に火を放ち、安徳天皇らと京都を離れる。 - 7月27日:後白河法皇が都に戻る。 - 7月28日:義仲と行家が入京する。 - 8月20日:神器のないまま、尊成親王が後鳥羽天皇として践祚する。 - 8月中旬:平氏が九州に上陸する。 - 9月:宗盛が法皇に書状を送るが、黙殺される。 - 10月:平氏が九州を追われ、四国へ渡る。 - 閏10月1日:水島の戦い。 - 11月29日:室山の戦いで行家が知盛・重衡に敗れる。
寿永4年(1185年)3月24日の壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、宝剣は失われた。こうして並べると、都落ちから壇ノ浦まで、平氏が約1年8か月のあいだ西国で抗戦を続けたことが分かる。京都を失った平氏は西国で再起を図ったが、朝廷が後鳥羽天皇を立てたことで、天皇を奉じる優位は失われた。