平教経
Taira no Noritsune
解説
平教経は平教盛の次男で、能登守に任じられたことから「能登殿」と呼ばれた武将である。『平家物語』では「度々の合戦に一度も不覚を取ったことがない」「王城一の強弓精兵」と評され、平家随一の猛将として繰り返し登場する。寿永3年(1184)の一の谷の戦いでは、源義経方の武将を討ち取るなど気勢を上げたが、義経の「鵯越の逆落とし」により平家方は総崩れとなり、教経も敗走を余儀なくされた。
続く元暦2年(1185)の屋島の戦いでは、義経の家臣・佐藤継信を弓で射抜いて討ち取ったとも伝わり、平家方の防戦のなかで随一の働きを見せた。こうした奮戦にもかかわらず平家の劣勢は覆らず、一門は長門国壇ノ浦へと追い詰められていく。同年3月24日の壇ノ浦の戦いが教経の最期の舞台となる。教経は源義経の船に迫り、あと一歩まで追い詰めるが、義経が船から船へ跳び移る「八艘飛び」でこれをかわされ討ち取ることができなかった。もはやこれまでと悟った教経は、武具を海に投げ捨て、源氏方の武者二人(安芸太郎・次郎兄弟と伝わる)を左右の脇に抱えたまま、ともに海へ身を投じたと『平家物語』「能登殿最期」の段は伝える。
弓の名手として名高い一方、格闘戦においても愛用の太刀を振るって奮戦したと描かれ、生涯無敗を誇ったその武技は後世、武士の理想像の一つとして語り継がれた。「能登殿最期」は『平家物語』屈指の名場面として知られ、判官びいきの義経と対をなす悲劇の猛将として、今日まで人々に親しまれている。なお、『吾妻鏡』には教経が壇ノ浦以前の屋島の戦いで既に討死していたとする記述もあり、「能登殿最期」の劇的な逸話には後世の文学的脚色が加わっている可能性も歴史研究の上で指摘されている。