足利義晴
Ashikaga Yoshiharu
解説
足利義晴は室町幕府第11代将軍・足利義澄の長男として、永正8年(1511)に近江国で生まれた。義澄は将軍職を追われて近江の六角氏を頼っていた時期であり、義晴はその地で生を受けている。義澄が没した後、播磨守護・赤松義村のもとで養育され、永正18年(1521)、第10代将軍・足利義稙が出奔したことを受けて元服し、室町幕府第12代将軍に就任した。
義晴の治世は、管領・細川高国と細川晴元・三好元長らの対立に翻弄され続けた不安定なものであった。大永7年(1527)の桂川の戦いで細川高国が敗れると、義晴も近江へ逃れ、天文3年(1534)に近江の六角定頼・義賢父子の仲介を得てようやく帰京するなど、京と近江坂本・朽木を幾度も往来する生涯を送った。天文5年(1536)には、比叡山延暦寺と日蓮宗徒との対立が武力衝突に発展した天文法華の乱が京で発生し、義晴もこの混乱への対応を迫られている。晩年には管領家に代わって台頭してきた三好長慶の勢力拡大にも苦しめられ、将軍の権威回復は容易ではなかった。天文15年(1546)には嫡男・義藤(のちの第13代将軍・足利義輝)に将軍職を譲っている。
足利将軍家は祖父・義政の代に整えられた「東山御物」をはじめ、代々多くの名刀・名物を蒐集・継承しており、義晴もその伝統を引き継ぐ立場にあった。将軍家が伝えた刀剣は諸大名への下賜品として用いられることもあり、政治的贈答や権威の象徴としての役割も担っていた。私生活では摂関家・近衛尚通の娘(慶寿院)を正室に迎え、二人の間に生まれた嫡男が後の第13代将軍・義輝である。実権に乏しく各地を転々とした「流浪の将軍」として語られる一方、戦国期における室町幕府の権威の形骸化と存続の両面を体現する人物として評価されている。