淀城
Yodo Castle
淀城は江戸時代(元和9年〈1623年〉築城開始、寛永2年〈1625年〉頃ほぼ完成)に築かれた関西の名城。城主は松平定綱(久松松平家)/のち永井氏・石川氏・戸田氏・松平氏を経て、享保8年(1723年)入封の稲葉正知以降は明治維新まで稲葉氏(Matsudaira Sadatsuna of the Hisamatsu-Matsudaira house; later the Nagai, Ishikawa, Toda and Matsudaira, and from Inaba Masatomo (installed 1723) the Inaba clan until the Meiji Restoration)。
概要
概要
淀城は、京都府京都市伏見区淀本町に築かれた江戸時代の平城である。宇治川・木津川・桂川の三川が合流する京都南郊の要衝に位置し、水運と陸路の双方を押さえる立地にあった。江戸時代を通じて淀藩の居城として機能し、幕末に至るまで京都の南の守りを担った。
築城の経緯
元和9年(1623年)、伏見城の廃城に伴い、京都を護衛する新たな拠点として、2代将軍徳川秀忠が松平定綱に築城を命じた。定綱は同年、遠江掛川から淀へ入部して淀藩を立藩し、幕府の援助を受けて工事を進め、城は寛永2年(1625年)頃にほぼ完成した。伏見に置かれていた京都防衛の役割を、そのまま淀へ移し替えた形の築城である。
伏見城からの転用
『徳川実紀』には、伏見城の殿閣を淀へ移すよう命じた記載があり、実際に本丸・天守台石垣の解体調査では、伏見城跡で確認されるものと共通する刻印をもつ石材が見つかっている。天守については二条城から移築されたとも伝えられる。連立式望楼型5重5階地下1階と伝わる天守は、宝暦6年(1756年)の落雷によって焼失し、以後再建されなかった。
城主の変遷
初代の松平定綱は寛永10年(1633年)に美濃大垣へ転じ、以後は永井氏、石川氏、戸田氏、松平氏と城主が入れ替わった。享保8年(1723年)に稲葉正知が入封してようやく藩主家が定着し、以後、稲葉氏が幕末・明治維新まで淀城主を務めた。稲葉家は、徳川家光の乳母として知られる春日局につながる家系である。
淀古城との違い
豊臣秀吉の側室・茶々(淀殿)が鶴松を産んだ産所として知られる城は「淀古城」と呼ばれる別の城で、現在の淀城跡から北へおよそ500メートル離れた場所にあった。淀古城は室町期から安土桃山期の城で、豊臣秀次の事件に伴って廃されており、徳川政権が新たに築いた淀城とは築城主体も時期も所在地も異なる。両者はしばしば混同されるが、区別して理解する必要がある。
現状
明治以降、城内の建物は失われ、市街地化と鉄道敷設によって城域は大きく改変された。それでも本丸の石垣・天守台と内濠の一部は良好に残り、淀城跡公園として保存・公開されている。石垣に用いられた巨石や刻印は、江戸初期の畿内における幕府直営に近い築城の技術水準を今に伝えている。
刀剣との関わり
淀城そのものに伝来した名刀の記録は確認されていない。ただし、享保8年(1723年)以降に幕末まで淀城主を務めた稲葉家は、日本刀の歴史に名を残す一族である。天下三作の一人に数えられる越中の刀工・郷義弘の作と伝わる国宝の刀に「稲葉江(いなばごう)」という号があり、この名は春日局の伯父にして養父にあたる稲葉重通が所持したことに由来する。天正13年(1585年)、重通は刀剣鑑定家の本阿弥光徳に義弘の作であることを鑑定させ、太刀を磨り上げて刀に仕立て直したと伝わる。 淀藩の稲葉家は、稲葉一鉄の子である重通の女婿となった稲葉正成(春日局の夫)の系統にあたり、号「稲葉江」の由来となった重通と血縁・姻戚でつながる。ただし刀そのものは早くに徳川家康の手に渡り、のちに結城秀康へ贈られたと伝えられており、淀城に置かれていたわけではない。現在は山口県の柏原美術館が所蔵し、国宝に指定されている。城と刀を直結させる記録はないが、淀城主の家名がそのまま名物刀の号として今日まで伝わっている点は、大名家と刀剣の関わり方を示す一例といえる。
見どころ
- 本丸の石垣と天守台 — 伏見城跡と共通する刻印をもつ石材が確認されている
- 内濠の一部 — 淀城跡公園として保存され、水堀の面影を残す
- 三川合流の要害 — 宇治川・木津川・桂川を押さえる京都南郊の水陸の要衝
- 5重5階と伝わる天守跡 — 宝暦6年(1756年)の落雷で焼失し天守台のみが残る
- 淀古城との区別 — 豊臣期の淀古城は北へ約500メートル離れた別の城
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