※画像はイメージです。水口城(碧水城)
Minakuchi Castle (Hekisui Castle)
水口城(碧水城)は寛永11年(1634年)築城に築かれた関西の名城。城主は徳川家光(将軍上洛の宿城) / 加藤明友(初代藩主)(Tokugawa Iemitsu (shogunal travel palace) / Kato Akitomo (first domain lord))。
概要
城について
水口城は東海道と中山道が分岐・合流する甲賀の地に、三代将軍・徳川家光の上洛(京都への公式訪問)に際した宿城として寛永11年(1634年)に築かれた特異な城郭である。将軍の上洛は幕府の権威を示す一大セレモニーであり、沿道の諸大名は将軍の宿泊に適した施設の整備を義務付けられた。水口城はその中でも特別に幕府直轄で建設された将軍専用の宿城であり、その豪華な御殿と完璧な防衛施設は将軍の威光を体現していた。
甲賀の地と伊賀越え
水口城が位置する甲賀(こうか)は、伊賀と並ぶ忍者の里として世界的に知られる地域である。甲賀忍者(甲賀衆)は室町時代から戦国時代にかけて各地の大名に情報・軍事工作の専門家として雇われ、その技術は刀・手裏剣・毒・変装術を網羅する総合的な武術体系であった。家康が本能寺の変の直後に「伊賀越え」を敢行した際、伊賀・甲賀の忍者が命がけで家康一行を守護したとされており、この縁から徳川家は甲賀衆を幕府の御庭番(隠密部隊)として登用した。
水口藩と加藤家
家光の上洛後、水口城は将軍の宿城としての役割を終え、天和2年(1682年)に加藤明友が2万石の水口藩主として入封した。以後、加藤家(後に鳥居家)が水口藩主として幕末まで続いた。水口城は規模は小さいながら将軍宿城としての格式を持ち、その石垣・堀・縄張りは幕府直営の建築技術の粋を集めたものである。水口城跡には石垣と堀が良好に残り、復元された隅櫓(水口城資料館)が将軍宿城の歴史を伝えている。
甲賀の文化と東海道
水口は東海道53次の50番目の宿場・水口宿として栄えた城下町であり、近江商人・参勤交代の大名・伊勢参りの旅人が行き交う賑やかな街道町でもあった。
刀剣との関わり
水口城と刀剣の縁は、この城が持つ複層的な武家文化の背景に根ざしている。将軍・家光の上洛宿城として建てられた水口城は、徳川将軍家の刀剣文化と直接結びついている。家光は刀剣に深い関心を持った将軍であり、彼が上洛の際に携えた刀は「将軍の御腰物(おこしらえもの)」として最高の名刀が選ばれた。水口城に将軍が宿泊した際には、地元の大名・旗本が将軍への献上品として名刀を贈る慣習があり、この交流を通じて将軍家と地方大名の刀剣コレクションが充実した。水口が位置する甲賀は忍者の里として知られるが、甲賀忍者の武器体系には刀・脇差は不可欠であった。甲賀衆が使用した「忍者刀」は一般的な刀よりも短く直刀に近く、暗闇での接近戦・逃走に特化した実用的な設計であったとされる。甲賀の刀鍛冶は忍者の需要に応えて実用的な短刀・脇差を製作し、その技術は近江国の刀剣文化の一角を形成した。近江国は「江州物(ごうしゅうもの)」と呼ばれる独自の刀工集団を持ち、近江長浜や彦根を中心に活動した刀工たちは井伊家の庇護のもとで作刀を続けた。水口城に入封した加藤家は賤ヶ岳七本槍の一人・加藤嘉明の家系(嘉明の孫・加藤明友が初代藩主)であり、武勇に名高い嘉明以来の武将文化を継ぐ刀剣蒐集の伝統を持っていた。水口城資料館では将軍宿城の歴史と甲賀の武家文化に関する展示を行っており、甲賀市の忍者屋敷(甲賀流忍術屋敷)と組み合わせることで、武士の刀と忍者の道具という二つの武器文化の異なる側面を一度に体験できる。
見どころ
- 水口城跡(石垣・堀) — 幕府直轄の将軍宿城が誇る精緻な石垣と水堀
- 水口城資料館(復元隅櫓) — 将軍の宿城としての歴史と甲賀の武家文化を展示
- 甲賀流忍術屋敷 — 本物の甲賀忍者の子孫が守る江戸時代の忍者屋敷(国の史跡)
- 甲賀の里忍術村 — 手裏剣体験・忍者資料館・甲賀衆の歴史
- 東海道水口宿の街並み — 江戸時代の宿場町の雰囲気が残る水口の町
- 多羅尾氏陣屋跡 — 幕府の甲賀代官・多羅尾家の陣屋跡と忍者の関係
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。