※画像はイメージです。多聞山城(多聞城)
Tamonyama Castle (Tamon Castle)
多聞山城(多聞城)は戦国時代(永禄2年〈1559年〉築城、天正5年〈1577年〉6月破却)に築かれた関西の名城。城主は松永久秀(築城)、松永久通、塙直政(Matsunaga Hisahide (builder), Matsunaga Hisamichi, Ban Naomasa)。
概要
概要
多聞山城は、奈良市法蓮町の眉間寺山に築かれた平山城。東西・南北とも約100メートルの規模と推定される。長屋状の櫓を意味する「多聞櫓」の名の由来となった城であり、近世城郭のさきがけとして城郭史上きわめて重要な位置を占める。
築城と歴史
永禄2年(1559年)から翌年にかけ、三好長慶の重臣として大和へ進出した松永久秀が築いた。久秀は東大寺・興福寺という大和の旧勢力を眼下に押さえるこの地を選び、大和支配の拠点とした。久秀ののち子の松永久通が入り、久秀が織田信長に降ったのちは信長の家臣・塙直政が城主となる。直政が天正4年(1576年)5月に石山合戦で討死すると、翌天正5年(1577年)6月、信長の命によって城は破却された。
構造
曲輪全体に礎石と石垣を用い、瓦葺きの恒久建築を並べた点が画期的だった。のちの天守に相当する「四階櫓(四階ヤグラ)」と、長屋状に連なる櫓が存在したとみられ、これが「多聞櫓」の語源となった。本丸には室町幕府の花の御所を模したとされる豪華な御殿が建ち、庭園や「楊貴妃の間」があったと伝わる。永禄8年(1565年)に訪れたイエズス会宣教師ルイス・デ・アルメイダは、キリスト教国でも見たことのない白く光沢のある壁を絶賛し、世界にこれほど善美な城はないと書き残している。城の様子は『多聞院日記』『柳生文書』などの同時代史料からもうかがえる。
現状・アクセス
破却後、建材は京都の二条新御所へ、石材は筒井城や郡山城へ転用された。昭和23年(1948年)の学校建設に伴う整地で主郭部の遺構は大きく削平されたが、校舎の西側・北側に一段高く残る部分に土塁跡と竪堀跡が、南斜面には曲輪跡が残存する。跡地の入口には「多聞城跡」の石碑が建つ。近鉄奈良駅から奈良交通バス「鴻池」下車、徒歩約10分。
刀剣との関わり
見どころ
- 「多聞櫓」の語源となった城で、近世城郭のさきがけとされる
- 松永久秀が大和支配の拠点として永禄2年(1559年)に築城
- 天守に相当する四階櫓、礎石・石垣・瓦葺きの恒久建築を全曲輪に採用
- ルイス・デ・アルメイダが「世界にこれほど善美な城はない」と記録
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。