黒井城
Kuroi Castle
黒井城は南北朝時代〜安土桃山時代(建武2年〈1335年〉築城、天正7年〈1579年〉8月9日落城、天正12年〈1584年〉頃廃城)に築かれた関西の名城。城主は赤松貞範(築城)、荻野氏、荻野秋清、赤井(荻野)直正、赤井忠家・幸家、斎藤利三(下館)、堀尾吉晴(Akamatsu Sadanori (builder), the Ogino family, Ogino Akikiyo, Akai (Ogino) Naomasa, Akai Tadaie and Yukiie, Saitō Toshimitsu (at the lower residence), and Horio Yoshiharu)。
概要
概要
黒井城は、兵庫県丹波市春日町の猪ノ口山(標高356メートル)に築かれた連郭式の山城。山頂の本城部分だけでなく、周囲の尾根に多数の砦を連ねた一大要塞であった。中世後期に丹波西部を統べた赤井(荻野)氏の居城として知られ、「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井直正の城として名高い。
築城と赤井(荻野)氏
建武2年(1335年)、赤松貞範が氷上郡春日部荘を与えられ、山頂に簡素な城を築いたのが始まりと伝わる。赤松氏の支配が約120年続いたのち、在地の荻野氏が春日部の地を掌握していった。天文23年(1554年)、同族の荻野直正が城主であった荻野秋清を討って城を奪い、赤井氏を率いて丹波西部へ勢力を広げる。この一件が「悪右衛門」の異名の由来ともいわれる。永禄8年(1565年)には丹波守護代・内藤宗勝を破り、黒井城は丹波の反織田勢力の中枢となった。
明智光秀の丹波攻め
天正3年(1575年)、織田信長の命で丹波へ入った明智光秀は黒井城を包囲したが、味方であったはずの八上城主・波多野秀治が背後を突いて寝返り、光秀軍は総退却を余儀なくされた。世にいう「赤井の呼び込み戦法」である。天正6年(1578年)に直正が病没すると赤井方は求心力を失い、天正7年(1579年)8月9日、第二次丹波攻めによって黒井城はついに落城。これをもって光秀の丹波平定は完了した。落城後は光秀の重臣・斎藤利三が入り、山麓の下館を陣屋とした。この陣屋で利三の末娘として生まれたのが、のちの春日局・お福であると伝承されている。その後は堀尾吉晴が城主となり、天正12年(1584年)頃に廃城となった。
構造・遺構
山頂の本丸を中心に、二の丸・三の丸を階段状に配し、東曲輪・西曲輪および帯曲輪をめぐらせて防御を固める。本丸周囲には天正期に築かれたとみられる野づら積の石垣が良好に残り、山城でありながら織豊系の築城技術を取り入れた過渡的な姿を今に伝える。周囲8キロメートルに及ぶ猪ノ口山全体が要塞化されていた。
現状・アクセス
1989年に国の史跡に指定され、2017年には続日本100名城(163番)に選定された。山頂まで登山道が整備され、丹波盆地を一望する眺望から「天空の城」としても親しまれる。JR福知山線「黒井駅」から登山口まで徒歩圏、山頂までは徒歩約40分。
刀剣との関わり
見どころ
- 「丹波の赤鬼」赤井(荻野)直正の居城として明智光秀を二度にわたり苦しめた
- 天正3年、波多野秀治の寝返りで光秀を総退却させた「赤井の呼び込み戦法」の舞台
- 本丸周囲に天正期の野づら積石垣が残り、山城から織豊系城郭への過渡期を示す
- 山麓の下館は春日局(お福)生誕地と伝承される
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。