※画像はイメージです。鳥羽城
Toba Castle
鳥羽城は天正4年(1576年)九鬼嘉隆が築城、日本初の本格的「海城」として完成に築かれた関西の名城。城主は九鬼嘉隆 → 九鬼守隆 → 内藤氏 → 土井氏 → 稲垣氏(Kuki Yoshitaka → Kuki Moritaka → Naitō clan → Doi clan → Inagaki clan)。
概要
鳥羽城は三重県鳥羽市に位置する城郭で、「海城(うみしろ)」あるいは「浮城(うきしろ)」とも呼ばれた、日本史上最も独創的な城郭構造の一つである。城は鳥羽湾に突き出た丘陵に築かれ、三方を海に囲まれた立地を最大限に活かした縄張りを持つ。船を横付けできる「船入(ふないり)」を城内に設けた本格的な水軍基地城郭として、日本の城郭史上きわめて稀な存在である。
城を築いたのは「九鬼水軍」の首領・九鬼嘉隆(くきよしたか)である。嘉隆は伊勢・志摩の海を制した海賊大名として知られ、織田信長・豊臣秀吉に水軍の提供によって仕えた。特に天正6年(1578年)の「木津川口の戦い」では、毛利水軍(村上水軍)との海戦で鉄甲船(てっかんせん)を用いて勝利したとされ、これは東洋における装甲軍艦の初使用として世界の軍事史に名を留める。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、九鬼嘉隆は西軍(石田三成方)に属した。その子・守隆は東軍に属したため父子対立となり、最終的に西軍の敗北後、嘉隆は自刃した。守隆は東軍への貢献によって鳥羽藩主として存続が認められたが、その子の代で家督争いが起こり、九鬼氏は鳥羽を召し上げられ摂津三田・丹波綾部へ移封となった(水軍は失われた)。
その後、鳥羽城は内藤氏・土井氏・稲垣氏と城主が変わり、明治維新まで鳥羽藩の藩庁として機能した。なお戊辰戦争の端緒『鳥羽・伏見の戦い(慶応4年/1868年)』の『鳥羽』は京都南郊の地名であり、この志摩・鳥羽城とは無関係である。城は明治期に廃城・解体されたが、本丸跡と石垣が国の史跡として保存されている。
刀剣との関わり
鳥羽城と日本刀の関係は、城主・九鬼嘉隆の人物像と、九鬼水軍が活躍した戦国期の海戦・海上交易の歴史に凝縮されている。 九鬼嘉隆は単なる「海賊大名」ではなく、織田信長の水軍統括者として陸戦武将と同等の権威を持つ人物であった。嘉隆が関ヶ原で西軍に加担した際、最後の自刃に及んだとされるが、この場面は戦国武将の最後を飾る日本刀の使用という文脈で語ることができる。嘉隆ゆかりの九鬼家には、江戸時代を通じて相伝された刀剣・甲冑が伝来しており、三重県内の神社・博物館に一部が奉納・所蔵されている。 九鬼水軍が制した伊勢・志摩の海は、「熊野速玉大社」や「伊雑宮(伊勢神宮別宮)」など神刀・神宝ゆかりの神社が集中する地域でもある。熊野地方は古来「熊野の鉄(くまのてつ)」として砂鉄の産地でもあり、刀の素材と深い関わりがある。 また、鳥羽・伏見の戦い(1868年)は日本刀が近代の銃砲と激突した最後の大規模合戦の一つとして、近代日本刀史の観点からも重要な位置を占める。伏見では旧幕府側の武士が大砲・銃に加えて日本刀で戦い、近代戦争と刀剣の時代の交差点となった。 志摩半島の海岸沿いには、九鬼水軍の活動を伝える史跡・寺院が点在し、刀剣・武具の奉納品を保管する地域文化財が各所に残る。鳥羽城は、海上に浮かぶ独創的な城郭構造と九鬼嘉隆という傑出した武将の双方を通じて、日本刀の歴史の中に確固たる位置を持つ。
見どころ
- 鳥羽城本丸跡・石垣 — 国史跡、海城の縄張りを示す石垣と空堀が現存
- 九鬼嘉隆像・顕彰碑 — 城跡に立つ「鉄甲船の父」九鬼嘉隆の銅像
- 船入(ふないり)跡 — 城内に船を引き込んだ水軍基地の遺構、海城の証拠
- 鳥羽水族館・ミキモト真珠島 — 城下に広がる志摩の海洋文化を体感する観光施設
- 鳥羽・伏見の戦い発祥地 — 明治維新・戊辰戦争の端緒となった歴史的戦場
- 熊野灘・伊勢志摩の砂鉄産地 — 玉鋼の原料となる砂鉄を産した九鬼水軍の海域
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