※画像はイメージです。鎌刃城
Kamaha Castle
鎌刃城は室町時代後期〜天正2年(1574年)廃城に築かれた関西の名城。城主は堀氏(堀秀村)(Hori clan (Hori Hidemura))。
概要
概要と立地
鎌刃城(かまはじょう)は滋賀県米原市番場に位置する標高384メートル、比高250メートルの山城であり、近江国の江北(湖北)と江南(湖南)を分かつ「境目の城」として中世近江の争乱史において重要な役割を果たした。城域は東西約400メートル・南北約500メートルにわたり、主郭から延びる尾根沿いに17の曲輪が配置された大規模な山城である。2005年3月に国指定史跡に指定され、2017年には続日本100名城(第156番)に選定された。
築城と室町期の城主変遷
鎌刃城の正確な築城時期は不明であるが、応仁の乱(1467年)前後に近江国の境目を押さえるために築かれたと推測されている。『今井軍記』に文明4年(1472年)の京極家の家臣による鎌刃城攻めの記事があり、この時点で城が存在したと考えられている。
天文期には近江守護の六角氏が、鎌刃城に在城する京極家の家臣・堀氏を攻め、天文7年(1538年)に城は六角方の手に落ちた。堀氏はその後、六角氏と浅井氏の間で帰属を変え、永禄2年(1559年)頃からは浅井氏に属した。
堀秀村・樋口直房と織田信長
鎌刃城の歴史を語る上で外せない人物が最後の城主・堀秀村(ほりひでむら)と、その家老・樋口直房(ひぐちなおふさ)である。幼少期に父が急死したため、家中の実権は樋口直房が握り、「近江随一の智謀」と称される名将として知られた。樋口は、稲葉山城(岐阜城)を失った竹中半兵衛重治が一時江北に逃れてきた際にこれを匿ったことでも有名である。
元亀元年(1570年)、織田信長が越前の朝倉義景討伐に向かった際、浅井長政の離反により信長軍は退路を断たれる危機に陥った。同年6月、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の家臣・竹中重治の調略を受けた樋口直房の勧めにより、当時15歳の堀秀村は浅井氏から離れて織田方へ転じ、同月の姉川の戦いにも信長方として参加した。
その後、鎌刃城は織田方の城として機能したが、天正2年(1574年)、越前の木ノ芽城の守備を任されていた家老・樋口直房が城を放棄して一向一揆と勝手に和睦したため秀吉に追われて討ち取られ、堀秀村も改易されて鎌刃城はまもなく廃城となった。秀村はその後、豊臣秀長に仕えていたとみられ、慶長4年(1599年)に43歳で没した。
構造と遺構の特徴
鎌刃城の遺構は、旧米原町教育委員会による平成10年度から3か年の発掘調査によって詳細が明らかになった。主郭を含む一部の曲輪は周囲を石灰岩の石積みで構築しており、平虎口の構造などとともに織豊期以前の築城技術の到達点を示す遺構とされる。
また、最南端の堀切の崖下には青龍の滝があり、その滝口には城内に水を引き入れたとされる水の手跡が確認できる。
尾根の先端はすべて堀切で防備され、西方尾根には連続竪堀群が設けられており、防御の徹底ぶりを示している。北方尾根上の曲輪からは、半地下式の大規模な総柱の礎石建物(南北8間・東西7間と想定)の跡も見つかっている。また、廃城時に石積みの天端を崩し、虎口を石で埋めるなど徹底した破城が行われたことも発掘で明らかになった。
現状と見どころ
鎌刃城跡は、米原市教育委員会が整備する山城遺跡として一般公開されている。石垣・堀切・竪堀・水の手跡など多くの遺構が良好な状態で残存しており、その規模は湖北でも最大級である。
アクセスはJR東海道本線「米原駅」から湖国バスで番場バス停下車、徒歩約45分(山道)。熊・ヒル・スズメバチなど野生生物に注意が必要であり、訪城の際は長袖・長靴での装備が推奨される。
見どころ
- 国指定史跡・続日本100名城第156番
- 主郭などを囲む石灰岩の石積み——織豊期以前の築城技術
- 青龍の滝の滝口に残る水の手跡
- 尾根先端の堀切・西尾根の連続竪堀群と17の曲輪群
- 堀秀村の織田方転向(1570年)と姉川の戦いへの伏線
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。