※画像はイメージです。田丸城
Tamaru Castle
田丸城は南北朝時代〜明治に築かれた関西の名城。城主は北畠氏・田丸氏・織田信雄・蒲生氏郷・紀州藩(Kitabatake clan, Tamaru clan, Oda Nobuo, Gamo Ujisato, Kii Domain)。
概要
概要と立地
**田丸城**は三重県度会郡玉城町に位置する平山城で、宮川の支流・外城田川が形成する台地上に築かれた伊勢国南部の要衝である。城跡は国の史跡に指定され、続日本100名城(154番)にも選定されている。現在は天守台・石垣・堀の遺構が整備されており、春の桜の名所としても親しまれている。
築城と北畠氏の時代
田丸城の起源は南北朝時代に遡る。延元元年(1336年)頃、南朝方の武将・北畠親房および北畠顕信が、南朝勢力の伊勢における拠点として築いたのが始まりとされる。北畠氏は代々伊勢国司として伊勢・志摩・紀伊を支配し、大河内城(松阪市)を本城とするとともに、田丸城を南方の重要支城として機能させた。
北畠政郷の四男・顕晴が田丸城に入り「田丸氏」を称した。田丸氏は北畠一族の分家として伊勢南部に根を張り、当地の支配を固めていった。中世を通じ、田丸城は周辺の豪族との抗争においても重要な役割を果たし、北畠氏の伊勢支配を支える南の楔として機能し続けた。
織田氏による近世城郭への改修
天正元年(1573年)、織田信長が伊勢に侵攻すると、北畠氏は次第に圧迫を受け、ついに嫡流の北畠具房の養嗣子として信長の次男・信雄(のちの織田信雄)を迎えることとなった。天正3年(1575年)、信雄は大河内城から田丸城へ本拠を移し、大規模な改修工事に着手した。
この改修により、田丸城は三層三階の天守を備えた近世城郭へと生まれ変わった。野面積みの石垣が随所に設けられ、戦国末期の城郭技術が結集された形態となった。信雄は田丸城を拠点として伊勢五郡を支配し、当地を織田氏の伊勢経営の中心として位置付けた。しかし天正8年(1580年)、原因不明の出火により天守をはじめ多くの建造物が焼失。信雄はその後、海上交通の要衝に近い松ヶ島城(松阪市)を新たに築き本拠を移したため、田丸城は一時期重要性を失った。
蒲生氏郷・豊臣期から江戸期へ
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い以降、伊勢は豊臣秀吉の影響下に入り、蒲生氏郷が松ヶ島城に入封した。田丸城には蒲生氏郷の家臣が城番として入り、その後も関ヶ原の戦いを経て紀州藩(徳川頼宣)の飛び地として組み込まれた。
江戸時代の田丸城は紀州藩の重要な管轄拠点となり、城代が置かれて度会郡を治めた。近世の整備によって石垣の改修も加えられ、中世山城から近世的な城郭へと改変が続いた。明治維新後の廃城令(1873年)を経て建造物はほぼすべて撤去されたが、天守台と石垣・堀は良好な状態で残存した。
刀剣・武具との関わり
田丸城と刀剣の関わりは、北畠氏の文化的背景と織田氏の武力制圧という二面から考察できる。伊勢国は古来より鍛冶の産地として知られ、北畠氏の保護のもとで地方刀工が活動していた。北畠氏は南朝方の有力氏族として武力を重んじ、刀剣を武家としての格式の象徴とした。
織田信雄による天正期の改修においては、当時の最先端の築城術とともに、大量の武具・刀剣が城内に蓄積された。信雄は父・信長譲りの美術的才覚を持ち、刀剣の蒐集にも関心を示したと伝わる。天正8年の火災では、城内に収蔵されていた武具・刀剣類も多数失われたとされており、その損失は惜しまれる。
現状と見どころ
現在、田丸城跡は玉城町が整備する史跡公園となっており、天守台・二の丸・三の丸の石垣や空堀が見学できる。移築された藤見門と三の丸詰の間(旧書院)が城内外で保存されており、往時の建築を偲ぶことができる。2017年には続日本100名城に選定され、年間を通じて城郭ファンが訪れる。4月上旬の桜の時季は特に賑わい、玉城町の観光の中心となっている。
交通アクセスは近畿日本鉄道山田線「田丸駅」から徒歩約10分。城跡の南西には「玉城町歴史民俗資料館」があり、出土品や田丸城にまつわる資料を展示している。
刀剣との関わり
北畠氏の武家文化と南朝への奉仕を体現した刀剣蒐集の伝統。天正3年(1575年)の織田信雄による近世改修期に多数の刀剣・武具が集積されたが、天正8年(1580年)の火災で多くが失われた。伊勢国の鍛冶文化との関わりも深く、北畠氏の庇護のもと地方刀工が活動していた。
見どころ
- 天守台と野面積み石垣(続日本100名城・三重県史跡)
- 北畠氏から織田信雄への城主交代と近世城郭への改修(1575年)
- 移築保存された藤見門と三の丸詰の間
- 桜の名所(春季)
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。